2022.9.20
自分をだいじに。

橋本 雅子

あろは〜呼吸法代表・ちぎり絵作家

愛媛県松山市生まれ。
1985年に「おきゃんぴー」というコンビ名でお笑い芸人の道へ。ひょうきん族、ひょうきん予備校、ヤンヤン歌うスタジオ、プッツン5など、バラエティー番組を中心に芸能活動を行う。
1993年より小池聰行氏(オリコン株式会社創業者)に呼吸法を師事。インストラクターとして呼吸法の指導を行う。2004年より師匠の呼吸法を軸に、独自のメソッドを取り入れた「あろは~呼吸法」を伝え、人生を好転させている人を増やし続けている。

2000年より、ちぎり絵作家としても活動をしている。
個展の開催、店舗、サロン、介護施設などに作品展示。また、児童施設、病院、老人介護施設、小中学校などでの「ちぎり絵ワークショップ」、全国に桜のちぎり絵を咲かせる「INORIさくらプロジェクト」、イベントなどでちぎり絵の楽しさを伝えている。2016年 全国和紙画展、和紙部門入選。

2019年より、おきゃんぴーを再結成して楽しく活動している。

著書「はじめた人から毎日が幸せになる あろは〜呼吸法」

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始めた人から毎日が幸せになる
『あろは~呼吸法』
PHP研究所

――こんにちは、今日のみずのたまインタビューは、橋本雅子さんに来ていただきました。いつも私は「まぁこさん」って呼ばせていただいているので、今日も「まぁこさん」でいきますね。

それではさっそくですが自己紹介からお願いします。

私は今、「あろは〜呼吸法」っていう呼吸法をお伝えするお仕事と、もう一つはちぎり絵作家、和紙をちぎって貼る、ちぎり絵アーティストのお仕事をしています。たまに、ちょっと、芸人活動をしております。

――もともとは芸能界にいらした?

そうですね。20代の頃、芸能界の仕事をしていましたね。はい。

――どんな芸能活動を?

お笑い芸人です。(笑)

コンビで、もうひとり相方がいて、コントとか漫才とか。でもまあ、ネタをするっていうよりもバラエティー番組によく出てましたね。

――どんなバラエティ番組?

皆さん知ってるような番組だと、「おれたちひょうきん族」とか「ひょうきん予備校」とか鶴ちゃんの「プッツン5」とか「ヤンヤン歌うスタジオ」とかまぁいろいろいろ。当時は11個ぐらいレギュラーがありました。

――なんという芸名で?

「おきゃんぴー」って言います。


――知ってる人も多いかもしれないですね。


(笑)知ってる人もいるかもしれないですけどもね.

世代的にあまりしない知らない人も。(笑)

――芸能界に入ろうという夢があったのですか?

子供の頃からテレビっ子だったんですよね。テレビが大好きで。もう、とにかくテレビに出たいなって思っていたんですね。小さい頃に。

で、普通に高校卒業して、高校までは愛媛にいたんですけどね。大学で東京に来て、就職したんですね。短大を出て就職したんですけど、その後で、「なんか違うな」と思って

やっぱりテレビ出たいなと思って。結構大企業にあの入ったんですけどね。「やめて、テレビに出たいんです」(笑)って正直に言ってやめて。

でも何も分からないから、まあ色々あるんですけど

――普通のOLから芸能界に飛び込んだ?どうやって?

普通のOLをして、その後すぐに芸能界っていうわけにはいかないから、とりあえず人前に出る仕事をしようと思って。その頃『とらばーゆ』っていう本がありましたね。そこにナレーターコンパニオンっていうのがあって、モーターショーとかでマイクを持って説明するっていうのを見つけて。「あ、マイク持って話すんだ!」って(笑)。


とりあえず人前で話す仕事をしようと思って、オーディション受けに行って、そこで相方と出会うんですよね。なんか面白い子いるなと思って。「相方いないかな」ってどっかで思ってたから。

芸能界で仕事したいけど、女優にはなれないし、アイドルにもなれないし。でもお笑いなら、もしかしてなれるかもしれないって。なんか思っちゃって。で頭の中で相方探してて。そしたらいたんですよ、ちょうど。

で、「やらない?」って言ったら「やる!」っていう。そこからなんですよ。

――え?それでめでたく、その後は、とんとんとんと?


それで本当に、とんとんとんなんですね。

相方は見つかりました。でもどうしていいかわからないから、とりあえずプロフィールをある事務所に送ったら、「オーディションがあるから来てください」って言われて、「ネタを作ってきてください」って。

ネタ作ったことないんだけど(笑)相方もちろん作ったことないんだけど。「じゃあ私に任しといて」って。ネタを作って。

でね、何分作っていいか分からなくて、30分も作っちゃったんですね(笑)。普通3分ぐらいなのに、それ分からないから30分ぐらい作って、延々とコントのネタ30分披露したんですね。

途中で「やめろ」とも言わないで見てくれたんですよ。で、「あの~、次はもっと短いの作ってきて(笑)」って言われたんです。

で、2回目のネタ見せ行った後に、「じゃあライブ出てみる?」って言われて。そしたら変な女の子達がいるって言って。次の時から結構見に来てくださる方がいて、もうその頃にCMの話が来て。もう次はラジオのレギュラーのが決まって。

もう知らない間にトントントンって忙しくなっちゃったんですね。「ひょうきん族」まであっという間でしたね。いろんな番組が決まっていって。

――ほんとうにトントントン。


こんなこと言ってちゃいけないと思っちゃうんですけど、全くもう下積みゼロですね。。相方はその時大学生大学1年だったんですね。慶応大学の。学校行きながら。

――恵まれたデビューだったんですね。でもそんな売れてる時期に、芸能界を引退されたんですね?


そうなんですよね。まあ、相方は仕事と大学と両方頑張ってしてたんですけど、やっぱり就職したいって言って。いい大学にいるし、周りの人も就職するし、「ちゃんとしたところに就職したい」って言って。

忙しくてちょっとちょっとしんどくなってたのも私の中にもあるし、彼女の中にもあったと思うんですけど。

で、「就職するんだったらいいよ」って言って、じゃあ私は何も決めてないから、とりあえずレポーターかなんかやりながら事務所に残って、芸能界の仕事をできるんだったら続けようかなと思って。細々と1人で活動してましたね。あのラジオ出たりとかレポーターしたりとかたまになんかドラマにちょこっと出してもらったりとかそんな感じで活動してました。

そうこうしてるうちに、私がちょっと色々ありまして芸能界をちょっとお休みをするか引退をするかっていう感じで。ちょっとフェードアウトすることがあったんですね。

それはですね。まあ、そう、子供を授かって。

――色々っていうけど、そこ聞いていいか、ためらいましたよ(笑)

・・・子供を授かったんですよ。そう、当時お付き合いしていた方との間に子供をね。

引退というか、もうフェードアウト。もう本当にほとんど誰にも言わないで。ラジオの仕事は妊娠7か月まで隠してしていたんですけど、もうこれ以上隠せないっていうところで。8か月になる前くらいですかね、芸能界でのお仕事はもうなくして。で、芸能界のお友達もいたんですけど、連絡も取らないようにして。1人で生まなきゃいけない状況になってしまったんですね。

――ほとんど誰にも言わず、でもどうやって1人で出産して子育てしてきたんですか?

そう!、で、貯金がなかったんですよ。(笑)

もう本当どうしようと思って。思いましたよね。

でも出産後すぐに動けないっていうのは、いくら若くても分かるじゃないですか。どうしようかなと思って。

で、妊娠が分かってからギリギリまで、とにかくお金を貯めようと思って。今まではもうね、お金入ったらすぐ使っちゃったりしてたのを、とにかく切り詰めて一生懸命貯めて。でも妊娠わかるのって大体2、3ヶ月ぐらいじゃないですか?だからもう5ヶ月ぐらいの間で一生懸命できる限りお金貯めて。産後に備えてね。一人で市役所・区役所へ行ってサポートの体制はないのかとか調べましたよ。

――たった一人で?


芸能界の友達には全く言わないけれど、近くに住んでた仲の良いお友達がいたりとか、まあ、親しい芸能界以外のお友達2人ぐらいには言ったかな。

その頃ね、30年ぐらい前だから、携帯じゃなくて普通の電話なんです。で、普通の電話の電話番号を変えちゃうと、もう居場所が分かんなくなるみたいなもんで。でも、それでも探してくれた芸能界のお友達もいてくださったりして。ありがたかったんですけどね。

1人で産むっていうのは今だったらね。いいかもしれないけど、30年前はまあちょっと・・・。しかもまあまあテレビ出てたからなんか言われるのがすごく嫌だなと思って。もうこれは本当に誰にも言うのやめようと思って。

――でも一人で出産、子育て。大変だったでしょう?

子供を保育園に預かってもらえるのが、やっぱりすぐに入れなくて、ね。なかなか空きがないって言って。8ヶ月まで待たなきゃいけなかった。「8か月までどうやって暮らそう」って思いましたけど。

なんとか繋いで、働き始めたんですよね。でも最初にすぐ就職先が見つからなくて。少しOLはやったもののすぐにやめちゃったもんだから、普通の仕事って面接に行ってもなかなか入れてくれなくて

とにかく子供は、赤ちゃんだから家の近くになんかないかなと思ったら、家の近くに家庭的なフランス料理屋があってね。もう本当に目と鼻の先1分ぐらいで行けるような場所にあって、じゃそこで働いてみようと思って働いたんですね。

最初は時給いくらって。保育園に預かったもらっている間に。そしたらね、そういうことやったことないもんですから。1階から3階まであるんですよ。で1階が厨房みたいな感じで2階3階にお客さんがいらっしゃって。でも家庭料理とはいえフランス料理だから1番下にお皿がね2番目にもお皿があって。3枚ぐらいあるんですよ。重いんだよね~(笑)


それを持って上行ったり下行ったり。ついこの間までマネージャーがいて、いろいろしてもらってたのに、トイレ掃除したりとか、そういったのが私にはやっぱりちょっとその時は辛かったんですけど。でも子供を育てなきゃいけないと思って、ちょっとまあ頑張ったんですけど。

――そこは「人生がんばった期」ですね。


頑張ったんですけど、ね。具合悪くなっちゃってね。

2ヶ月目ぐらいからものすごく高熱が出るようになっちゃったんですよね。動けなくなっちゃって。だけど子供は育てなきゃいけない、自分は高熱が出る。だけど頑張ったんですよ。友達に助けてもらいながらね。

1ヶ月のうちの1週間ぐらいは寝込むような感じで。そんなんで、ちょっと頑張りながらやってるうちに今度娘はだんだん重度のアトピーになってくんですよね。引っ掻いちゃうから毎朝シーツが血でいっぱいになっちゃったりとか。

もう泣きたいけど親にも言えない。そう、親に勘当されちゃってたんでね。


もう負けてられないし、子供を死なせちゃいけないし、とにかく子供を育てなきゃいけないっていうので頑張りましたね。とりあえず、ご飯は食べれるようにしないといけないと思って。

――納豆しか食べるものがなかったって聞いたことがありますが?

(笑)そうそうそう、3歳くらいまで納豆としらすだけ、みたいな(笑)

――呼吸法はそんなころに出会った?

その熱を出してもう大変な時期が半年ぐらいあった頃に、オリコンの小池社長から連絡があって。多分誰かから大変な状態を聞いたんだと思うんですけど、社長から「作詞家にならない?」って電話かかってきたんです。

作詞書いたことないですよ。もちろん。(笑)
「まーちゃん」って言われてたんですけど。「あ。もしもし、まーちゃん?作詞家にならない?」って言って。誰かに私の連絡先を聞いて、なんか連絡があったんですね。で「やります!なります!なります!」って言ったんですね。

もう何でもやんなきゃいけないと思ったから、「作詞家になる人、作曲家になる人、歌手になりたい人を僕は育てていこうと思うから、作詞家になりなよ」って言われて、「その勉強しなさい」って言われて。「やります」って言って始めたんですよね。

週に1回だけ、近くで、仲いいお友達に娘を何時間かだけ預けて見てもらったりとかして、そのレッスンに通うようになって。そうそしたらそこで出会ったのが呼吸法なんですね。社長が教えてくださったんですけど、作詞を教えてくれるのかと思ったら呼吸法だったんですね。うん。

元は社長が「宇宙呼吸法」って言ってたんですけど。まあ怪しいですけどね。その頃30年前に宇宙とかっていうのは怪しいですけど。あのその呼吸法の社長の最初の10人の弟子の1人だったんです。教えてもらって、とにかく呼吸をやりましたね。

――その呼吸法でまぁこさんの体調もよくなっていったのですね?

体調が治りましたね。
毎月1週間寝込んで、しょっちゅう病院に行ってて。治さなきゃって思って、あっちの病院、こっちの病院って、行って。こんなに(山盛りの)病院のカードがあるぐらいだったんだけど、病院行かなくて良くなって熱が出なくなって。

あと、娘のアトピーがだんだん良くなっていったりとかね。私がよくなるとね、なんか不思議なことがどんどん起こってきましたね。うん。

――そして、呼吸法を教える立場になった?

そこに至るのは、最初は習ってただけなんですけど、社長が会社をもう一つ作るって言って。呼吸法とかそういうための会社を作るって言って本出されてね。呼吸法とか瞑想法の本出したら、習いたいって方がたくさんいて。社長は社長業が忙しいじゃないですか。インストラクターが必要になって、それで「インストラクターやらないか」っていう話があって。まず社長のところでアルバイトで働くようになって、そこから契約社員にしてもらって、社員にしてもらって。そう、オリコンの中でスクールするようになって。教えるようになりました。


――ある意味、小池社長は恩人?


もう超恩人ですね。呼吸法だけじゃなくて、生き方とかいろんなことを教えてもらいましたね。
考え方とかね。

――じゃあそれで、ご自身の人生も好転し始めた?

そう、もうカラカラ鳴ってたんですよ。歯車が。空回りして。

私の人生、なんかこの間までなんかとても良かったはずなのに、いきなりなんか、カラカラ空回りしてるなと思ったのが、呼吸法始めて、だんだんだんだん、噛み合うようになって、歯車が近づいて、噛み合うなって、少し回るようになって。

で、そうやってお給料いただくようになって、本当に忙しかったのであんまりお金使うこともなかったから、一生懸命そこでまた貯金ができました

――女手ひとつで、ここまでよく頑張られましたね~。ところで現在のもうひとつのお仕事、ちぎり絵はいつから?


ちぎり絵は2000年から始めたので22年になります。呼吸法は30年ですけど。

ちぎり絵はね。お友達と一緒に渋谷の和食屋さんに行った時に、飾ってあったんですね。よく見るようなお花がけばけばしてるようなね、和紙で、和的な

「なんか可愛いな」って思って見てて。廊下からお部屋から全部ちぎり絵だったんですね。で、見た時にいきなりピンって!ピンってきたんですよ!そのピンてきたのが「和紙でハワイの景色を作りたい」だったんですよ。

――両極端!!


その前にホノルルマラソン行ったりハワイへ行くような機会があったんでね。なんかハワイ好きで。ハワイの景色とかに、私もすごい精神的に助けられたことがあったりしたなと思ったんで。なんか恩返しできることないかなって心のどっかで思ってて。そしたらこれだ!と思って。

絵、描いたことないし、ちぎり絵もしたことないんだけど、「これだ!」って思っちゃった。

じゃあとりあえず1回習ってみようって言って。一緒に行ったお友達と2人でちぎり絵をワークショップで習ったんだけど、「違う」と思ったんですよ。「このやり方じゃない」と思って。

1回で「私はこれ違う」と思ったけど、和紙で作りたいと思って。じゃあ自分で好きに1回作ってみようと思って。1番最初に作ったのがなんか分かんないけど、カメハメハ大王を作ってみて。

(初めてのちぎり絵作品「カメハメハ大王」)

なんか感覚として、「これだ!」と思ったから、そこから作り始めたんですよ。楽しくて、楽しくてどんどんと。
もう楽しくて、楽しくて。趣味ですね。

作り始めて、たくさん溜まったから、それを自分でカラーコピーでカレンダーを作ったんですね。それをお友達にプレゼントしようかなと思って。プレゼントを渡す相手がちょうどヒーリングのマッサージをする先生のところへ行く時でね。一緒に行ってそこで待ってる間に、「カレンダー作ったからプレゼントするね」って。そこで一緒にそのカレンダーを見てたら、なんか横で見てた女の人がいて「これなんですか?」って。「私が作ったちぎり絵をカレンダーにしてみたんですよ」って。

(初の受賞作品)

そしたら、「あの~、会報誌の表紙をこれで作ってくれませんか?」っていう話になって。その人はそこのヒーリングの先生の会報誌をを編集してた人だったんですけど、「とにかくまずは1年契約で毎月その会報誌の表紙をちぎり絵で描いてください」って。「はい、分かりました」って言ってやってて、1年で終わるのかなと思ったら、結局5年続いて!


それで5年終わったらまあ、もうお仕事ないかなと思ったら。「個展もやった方がいいんじゃない?」とか言われて。「ここでやったら?」なんて言われたところでやるぐらいで、そんな積極的じゃなかったんですけど、個展も何回かやりました

そこでいくつか作品は売れたものの、なんか別にこれを仕事にしようとも思わなかったんですけど。そしたらある日私のちぎり絵のポストカードを見た方がそれを誰かに差し上げたら、もらってくださった方が大企業の介護施設のデザイナーさんだったんですよ。で、飾る絵をどうしようかなって考えてたらしくって。

その老人ホームは、ここは桜をテーマに作る老人ホーム。ここはヨーロッパをテーマにした老人ホーム。ここは南の島をテーマにしたホームっていう、そういうテーマをもった老人ホームだったんですね。そしたら7箇所か8箇所分、テーマごとに作品作ってくださいって仕事が来て。でそうやっているうちに、次は懐石料理屋さんから話がきて。

「やめちゃいけないよ!」っていうふうになってくんです。どんどん。それが今もそうなんですね。だから「いつでもやめていいよ」って思いながら、やめちゃいけないふうになってて。

私の呼吸法に来た方が、呼吸法やっているところに、ちぎり絵の作品を飾らせてもらったりしてたんで。「これは何ですか?」って。「私もちぎり絵もやってるんですよ」って言ったら、病院でね、入院している難病の子達にちぎり絵を教えるっていうプロジェクトをしてる人がいるんだけれど、そこでやらないか?って言われて。

病院に行って、癌になってるような子供達にちぎり絵を教えるような活動を3年ぐらいしたんです。8ヶ月の子からできるんですよ、ちぎって貼ると作品が作れるんです、ちぎり絵って。

お母さんもやっぱりもう看病で疲れてるわけですよ。でもその時間子供と一緒に作ることで、すごい癒されていくのを見て、「あーよかったな」と思って。逆にこっちが癒されちゃって、いいお仕事させてもらったと思って。

それでなんかちょっと運ばれてって。

最近のプロジェクトでいうと「INORI桜プロジェクト」っていうのがあって。

ちょうどコロナになる直前で終わりだったんですけど。ちぎり絵を一人で作るんじゃなくって、みんなで力を合わせて桜のちぎり絵を作って全国各地に作って飾りましょうっていうプロジェクトを始めて。それを1年半やって、ちょうど終わりがコロナで駄目になるギリギリだったから、すごい計ったように終わったなと思って。

――まぁこさんって、なんだか風に乗って運ばれてきた感じ?

そう、お笑いも多分そうだし。

――とはいえ、現実問題、目の前のことをこなすので大変だったこともいっぱいあったのではないですか?

明日のご飯、どうしようっていう時も何回もあってね。でもね、呼吸法をしているとピンチの時はお助けが必ずやってきた。
呼吸法とちぎり絵だけで頑張ろうって言ってやり始めた時にやっぱり生活ができなくなって、もうどうしようって時にでもお助けが来るんですね。ちょうどちぎり絵の依頼が来てどうにかなったりとかね。

――そんな一人で産んで育ててきたお嬢さんも、今はもう立派に成人?


はい、娘はフラダンサーですね。娘はね、苦労とは思わないで、いっぱいしてきましけどね。一緒に。

(還暦のお祝いに母娘で旅行へ)


――2人で頑張ってきた?


そうですね。でもね、頑張ってきた気がないんですよね。もうあの笑っちゃうことばっかり。笑い飛ばして、全部笑い飛ばして。

―とところで、最近、芸能活動を少しだけ復活してるって聞きましたけど。


おきゃんぴーを、まあ5年ぐらい活動してたんですけど、30年ぐらい、ちょうど平成の間お休みして。ずっと相方とは仲がいいですから、まあ解散したわけではなくて、30年ぐらいお休みした感じなんですけど。

2019年のある日、「この日、空けといて」って言われて。「一曲だけ私と歌を歌ってくれないか」って言われてね。

彼女がちょっとライブで歌ったりする活動してたんで、私、人前で歌うのが一番嫌だけど、一曲だけだったら頑張るとか言って。じゃあその打ち合わせがあるんだけどって言って、そのライブの2週間前にディレクターとかプロデューサーと打ち合わせをしなきゃいけないから来てくれないかって行ったら、そこで分かったのが、おきゃんぴーライブだったんですよ。

しかも歌を十曲ぐらい1人でも歌ってくださいとか言われて。それはもう「絶対無理、無理、無理、無理、無理!!!」って言ったんだけど。

でももう会場も決まってるし、お客さんも満席になってるからやめるわけにはいかないんだって言われて、どうしようって思ったのね。

一応お笑いミュージックライブってもう出ちゃってるから、下手でもやんなきゃいけない。これはもうやるしかないと思って一生懸命歌も練習して

ネタとネタの前後はもうフリートークみたいな感じで、ゲストを呼んで「もう私達おばちゃんだからすぐ疲れちゃうからね、ちょっと休んできます」って言ってちょっと助けてもらいながらやったんですけど、そしたらね。すごい好評だったんですよね。


で、お客さんは私たちを知ってるかと思うとそうでもなくて。
若い人も多くて知らない人の方が半分以上だったんですよ。

「またやってください。またすぐやってください」とかって言われながら、また3年ぐらい経ってるんですけどね。そろそろ3年4年ぐらい経ったらやろうかなと思うんです。

そんな感じで、これで終わるのもあれだなと思って、インスタTikTokに動画をアップしたりね。2年前からカレンダーを作って。いつもカレンダーから始まるんですけど。

――そういえば、まぁこさん、いつもカレンダーがチャンスを作ってくれましたね(笑)

――そんな苦労を苦労とも思わせないようなまぁこさん。いままでに「これだけは大切にしてきた」ことって何かありますか?

呼吸ですね。呼吸をまず整える

呼吸法で私は助けられてたので、恩送りと思って呼吸法を伝えようかなっていうので、運ばれるままにですけど、今も伝えてます。

とにかく、自分の中を呼吸でクリアにする1日をクリアにして始めて、クリアにして終わる。ただそれだけかな、シンプルなんですけど。

――その呼吸法のおかげで今がある?


小池社長がね。いつも言ってた言葉が「囚われず、拘らず、執着せず」っていう言葉をいつも言ってて。私もそれがもう染み付いてて。毎日心の中で「囚われず、拘らず、執着せず」って思うんですけどね。

あと「我、大愛なり」っていうのもちょっと思うんですけど。

で、その「囚われず、拘らず、執着せず」っていうのは、呼吸法をしているとだんだんそういうふうに自然になってくっていう風に教えていただいたけど。

なんか、だんだん、だんだんそういう風に近づいてるかなっていうのがあって。「囚われず、拘らず、執着せず」でいつもいたいなっていうふうに思ってます。

結局何か毎日起こるじゃないですか。いろんなことがね。

で起こったことをどうするかって分かりやすく言うと、笑い飛ばすことだなとここ最近気がついて。

そういえば全部笑い飛ばしてきたなと思って。

特に呼吸法に出会ってから、何があっても笑い飛ばしてきた、ひとりじゃなくて娘と笑い飛ばしたりね。

(恩師小池社長からの呼吸法をベースに独自の呼吸法に。『あろは~呼吸法』)

全部「拘らず、囚われず、執着せず」っていれば、どんなことだって、笑ってると、なんか過ぎていくし。時間が経てば、「あぁだからあの時あんなこと起こったんだ」とか、「これに気づけだったんだ」とか。

でね。知らず知らずのうちに「自分はさておき」になってたんですね。母の介護も最近までしてたし。子育て終わったと思ったら次介護だったりとかね。

主婦してる時はとにかく「自分はさておき」だったんですね。もうもう子供が生まれてからずっとで、そこがちょっと違ってたってことが最近分かって。

ここ数年は、「自分を大事にしなさいよ」っていうことだなんだなっていう出来事がすごくあったなと思って。それに気がついて今年還暦になったんですけど。
自分を大事にするっていうのをちょっと心に留めてます。

――今日は還暦の赤いドレスがとてもまぁこさんらしい。ハワイの太陽みたい。

今日は貴重なお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。

★まぁこさん&おきゃんぴーの近況は Instagramで。
橋本雅子 masako.aloha
おきゃんぴー okyanpii3

死ぬ時が人生の最高峰(後編)
まず、自分を愛で満たす
「自分に嘘をつかない」
「ほんとうのことが、知りたい」
「おかげさま」の祈り
「仕事を通じて恩返し」
「”生かされている命”を全う」
水の中にすべての知恵がある