2022.1.28
天道生え(てんとばえ)

永島 美奈子

株式会社重岡 営業・総務部長

1961年福岡県生まれ。JR九州の情報誌、関西の食の雑誌『あまから手帖』の編集を経て上京。直販雑誌『いきいき』(現:『ハルメク』)の通販部門の編集長を務める。2013年天然温泉施設「ゆの里」を営む(株)重岡に転職。営業・総務部長兼務。和歌山と東京の二拠点生活で、「ゆの里」の価値を拡散中。

和歌山県・天然温泉「ゆの里」

『お水が教えてくれたこと』
『お水が教えてくれたことⅡ』

天然温泉「ゆの里」を知るためのひとつの手引書。
一冊目はスタッフ視点での「ゆの里ものがたり」。
2021年発行のⅡでは「ゆの里」の近況を伝えています。

――おはようございます。今日のみずのたまインタビュー、ゲストに来ていただいたのは「ゆの里」の営業部長の永島美奈子さんです。

仕事上で知り合った永島さんですが、私、個人的に永島さんが大好きで、「この人どんな生き方してきたんだろう~」ってとっても興味があるので、今日は仕事の話ではなく、雑談でお願いします。

雑談ね、はい。よろしくお願いいたします。

――今、お仕事は何をされているのでしょう?

「ゆの里」での基本の肩書きは営業なんですけれども。まあ採用の人事的なことをやったりあとはそうですね、企画をやったり。まぁいろいろですね

――「ゆの里」に就職したきっかけは?

きっかけはもう、堀場さん(ほーりー)ですよね(笑)

あれは何年だったかな。私が「ゆの里」に入社したのが2013年で。

これはよく言っていることなんですけれど、前職が東京の出版社に勤めていて、そこで取引先がプロ・アクティブさん。

「ゆの里」に転職する前に、私の中では大きな転機が2007年にあって。その前後から、ずっと「ゆの里」のことを堀場さんが話していて「行きましょうよ、行きましょうよ」って誘ってくれていたんですよね。

でも私はまったく聞く耳を持たずに無視していた(笑)。これも有名な話ですけれどね。

出版社時代、通販部隊のバイヤーをしていたんですが、お水は、何て言うのかな、いろいろなところから売り込みもあるし、浄水器水関連の提案が多かったんですね。

水っていうものの怪しさと言うか。販売している人たちの怪しさもあったので、ミネラルウォーターの「月のしずく」の話とか、温泉施設の話とか聞かされても、「え? 水ですか? 勘弁」みたいな感じで、ちょっと聞く耳がなかったのです。

でも、あの時、いつものように堀場さんは私に、「いいんですよ、月のしずく。いいんですよ、ゆの里。行こうよ」ってな同じ調子でぶつけてきた。

その言葉に私は「え、今何て言った?」って、初めて聞いたように聞きなおしたんですよね。

そこからなぜか、「ゆの里」に心が動いていったんですね。 

※ 永島さんの現在の仕事場、和歌山県橋本市 天然温泉「ゆの里」

――しつこく誘った私だけど、その時に心が動いたというのは何か永島さんに変化が起きていたタイミングだったのでしょうか?

ものすごくありましたね、その当時に。

会社に入って、幹部になって、経営者側と一緒に仕事をする、動くことも多かったんですけれど。なぜか、2007年にその社長から、もう言ってもいいと思いますけれど、圧力というか、ハラスメントを受けたのね。

で、ものすごい、めげちゃったんです。

精神的に仕事なんかできない状態に。

今まで、そういう職場での経験は、特にハラスメントについては経験がなかったから相当へこんだんでしょうね。

とはいえ、そうは言っても自分の中では立て直したフリをして、いつものようにしようとプロ・アクティブさんとは商談を進めていたんだと思うんですけれど。

その時、心が動いたんだろうね。

――心が動いたとしても、お客さんで「ゆの里」へ行くのと社員になるのとは違うじゃないですか?

そうですね。お客さんで年に1、2回。「ほーりーが行く時に声かけて」って言って付いて行く。それが年に4,5回と回数が多くなっていったね。

ほーりーはお水のことを勧めてくれたけれど、私はそれよりもだんだん「重岡ファミリーって何モノ?」みたいな。

このお水をいろんな人につなげようと思っている、その重岡さんたちに魅かれるわけ。まぁ、ほーりーのおかげでいつも食事が社長とか会長、今は亡くなっていますけれど、会長と一緒に同席させてもらっていました。

その場でも、どんどんお水とか温泉よりも「その人たち」に興味がいって。

それからずっと、そういうアンテナをピピピっと張って、「どうしてそういう考え方が起こるの?」「なんでそんな風に考えるの?」とすごい興味が増してきた。

これもよく話しますが、重岡社長の仕事が、社長の仕事だけじゃなくって、もう、とにかくあらゆることをやっていたんですよね。そのころ、専務でしたけど。

もうちょっと、誰か他にやってくれる人がいるだろう、みたいなね。社長に「何か、私でできるものがあればやってあげる」と言うのもおこがましいですが、手伝ってあげたいなって思い始めて……。

それは、外からのアプローチというかサポートというか、「私、こんなことができるからこんなお手伝いできますよ」って言えることで、別に好きな編集者を辞めてまで社員になる必要はなかったかもしれないけど・・・。

まわりも仕事を2つも3つも持って、職業として両立させてやっている人もいたし。そうゆうやり方でも良かったんだと思うけれど。

なんかね、やっぱりそれは、違うだろうと。

ゆの里」の中に入り込んで、同じ釜の飯じゃないけど、一緒に寝起きして、ご飯も食べて。その見えない時間の中に飛び込むっていう「腹のくくり」がないと、これはちょっと違うだろうなっていう感じがあったのね。

※「血のつながりのない家族」のよう、今はもうゆの里ファミリーの一員

――それで、思い切って転職を!

前職、編集者時代では、どんな経験を積まれてきたのですか?

雑誌の編集長であり、通販部隊のリーダーをやっていて。現場に行って取材してまとめてと。定期購読誌だったので、雑誌を出すサイクルの中で、いろいろな物とか人に出会ってすごく楽しかったのね。自分の中でも面白いなと思っていたんですけれど。

ある時から管理職になって、人を評価したり、いろんなものに対して外から上からアドバイスするみたいな。現場から離れていくの。

でも現場から離れてもそれはそれで、それでも「いいんじゃない」と、まぁいい加減なところがあったんです。

でもね、なんかね。もう、通販的な仕事は「やった感」があったんですね。

もう、モノはいいな、いらないなみたいな。

とはいえ、モノに育てられたという私の中ではすごい思いもあって。

モノが人を磨いていくというか、いろいろなモノを見つけつつ育てられた感があったので、モノを人に紹介したり、しかも自分が体験して本音が書ける雑誌だったので、それはすごいやりがいもあったけれど、最後は、「モノはやりきったな」の感じがあったんでしょうね。

――では、編集長以前、ライターとして書くようになったのは、いつから?

文章を書くようになったのは福岡時代ですね。 

元々はグラフィックデザイナーになりたくて。まあ、もっと言うなら絵を描いたり、そういうビジュアルの仕事がしたいなと思ってた。でもその時に、亡くなった兄貴が絵描きだったので、そういうアート一筋みたいなのは嫌だなと思ったんですね。

高校の美術部には入っていましたけどね。デッサンを毎日描いて、何が面白いんだろう、こんなことしてって、思いながらね。

なんか白黒のデッサン描いてもつまんないし。毎回毎回同じで。それを何百枚描いて、やっと「立派な人になるんだよ」みたいなことを先輩から言われてもつまんない。

自分に向き合うっていうのもどうよ~って(笑) 

そのころ、商業デザインっていうのがあることを知り、私の個性を見て見てって言う自己主張のアートの世界より、まず、お題があって、そこの企業が持っているものに合わせて加工して、もっと多くの人に見てもらうっていう、そっちの方に興味がありました。

それなら美大じゃないだろうと。美大じゃない割には、それでも美大も受けたんですけどね、落ちたから言うわけじゃないけれど(笑)。

で、グラフィックデザインの専門学校に入ったんですよ。

2年の専門学校を出て、地元福岡の印刷会社にグラフィックデザイナーとして就職しました。でも、そのころ、デザインを起こして仕上げていったら、どんどんどんどん紙が汚れるんですよ(笑) 。汚くなるの。きれいじゃない。

なんかね、あの当時、烏口(からすぐち)というインクを入れて線を引く道具があって、「線を引きなさい」って言われても、こっちの端から汚れていくんですよ。

その前のアイデアを出したり、こういう感じでプレゼンテーションしようとか、マーケティングのためにはこれが売れる!と、企画立てるのは楽しいのに。

「それじゃデザインに起こすぜ」って言われたら、全然なんかこう、ビジュアルに落とす時に汚いのよね。

――それは、もっと得意な人にやってもらったらいいって思った?

そうそうそう。デザインはもっと得意な人にやってもらったらいいじゃんって。

その時に、ものすごい印象に残っていることがあるんだけど。

同じ企画室にいたお兄ちゃん(先輩)が、今からある企業にプレゼンテーションするんだけど、そのプレゼンテーションの相手(クライアント)にわかってもらうために、音楽のテープを持って行ったんですよ。

テープを聞かせながら、「僕のビジュアルのイメージはこの感じ」ってプレゼンやるの。「冊子でも何でもこういう感じなんですよね」って音を聞かせて。

そういうセンスっていうか、空気感をわからせる手段は、書いたものとか形じゃなくていいんだと。音とかいろんな提案の仕方があるんだっていうことが、もう、目から鱗、かっこいい。すごい印象に残っている。

そういうものを加工してまとめて(編集して)、私もやりたいんだけど、そのことがどんなことか、私の中ではまだ固まってない。わからないんですよね。

でもまあ、仕事は印刷会社時代に JR九州の車内誌の編集長をやったり、地元の生協に出向してコープのいろんな印刷物や通販をやったり。

同じ、紙媒体のくくりで、印刷会社だったから紙につながる仕事はしていたんですよね。

――編集のタネは最初からあったんですね~。

でも、料理人になろうと思ったんですよね。

うちの兄貴が精神の病気になっちゃって。ご飯を食べるか食べないかが、彼が生きているか生きていないかの“おしるし”というか。

毎日、母親がテーブルにおにぎりを置いて。真っ暗な部屋に閉じこもっている兄貴が2階の部屋から降りてきて、それを食べたら「今日はいい調子」とか。食べなければ「悪いぞ」と。

「食べるって何かな?」みたいなことが、ずっと頭の片方に思っていて。もう片方では、JR九州の情報誌の取材で、九州全部を周るんですよね。

その時に土地の産物とか、食べ物を取材する。食べ物を扱っている人を取材する。

食べている人に、怒りながら食べている人いないし、(まずければ文句言いながら食べるだろうけど)文句言いながら食べてる人もいないから。

「あぁ、食の周りって面白いな」と思って、それで福岡の料理研究家の先生のところに弟子入りしようと思ったの。

――料理を自分でやろうと思って?

まずは、その食の現場だと思って(笑)。

教えている人がおばあちゃん先生なんですけども、桧山タミ先生って、すごいいい先生なんですね。江上トミさんとかと一緒に海外に行かれて。料理研究家の先駆けの人なんですけれど。

料理がどうのこうのというより、料理研究家の桧山先生が私に合うと思うよって、友人が探してくれたの。そこに入ってね、料理を作るっていうよりも、そこは「料理塾」だったから、掃除するとか整えるとかいうのを学ぶのが面白かったのね。


――その料理教室に通ったのが次の仕事につながった?

 

料理研究家になる!いい感じの先生になろう! みたいに思っていた。

印刷会社の退職金をあてに大型冷蔵庫も買ったし(笑)。

周りを固めるのは OK やったんですよ、状況固めは強い。

「もう料理研究家になるしかないぜ~」くらいまで思っていたら、その桧山先生っていう人が 「向かないよ」って、ひとこと(笑)

「料理研究家には向かないけれど、料理を伝える人になるといいわ。あなたはそれがいいと思う」って。

私も素直に「そうですか」って言って。やっぱり見ていたのね。私の粗いやり方を(笑)。

お米研げと言われてもまじめに研がないし、床を掃除しとけって言われても、まあるく掃くしね(笑)。料理は好きだけど、その辺の雑な感じ。

だけども、見てきたような嘘を言う表現力はある(笑)。 そんな伝え方を買ってはったんかな。

――料理を伝える側になろうと素直に思えたんですね。

でも当時、福岡に料理雑誌はなかったんですよ。その時に忘れもしない、天神のリーブル書店っていう本屋に『あまから手帖』という大阪の食の月刊誌が、2、3冊くらい配本されていたのかな。これは面白そうだと思って、この大阪の、この出版社に入ろう って、押しかけたんです。

そしたら採用がなかったんですよね。ゆの里と一緒ですよ(笑)。誰も求めていない。

おしかける前に、どういう出版社かって編集の大体の感じはわかっていたから、入りたいっていうお手紙を書くわけですよ。「私、入りたいです」って。

でも、採用枠はないのに。

その『あまから手帖』の編集長が全国に取材に行ったりするのは知っていたから、「九州に来た時はよろしく」みたいな、返事はあったわけ。「じゃあ今度、大分に行くよ。湯布院行くよ」って連絡が入ると、湯布院で取材するならここみたいなものを私がまとめて提案したんですよね。

で、実際にそこに行ったら、なかなかいいじゃんっとなって、「君も、ちょっと書いたりするのはどう?」って話になって。 

ちょびちょび、手繰り寄せてきたんですね(笑)

――自分でそのポジションを、梯子をかけて勝ち取ってきたんですね。

そうですね。好きなことしかしてきてないね、今思えば。

――では、福岡から、次は大阪へ?

大阪に行って、『あまから手帖』社に入ったら、神戸で震災に遭いましたね。入社して4,5年後くらいかな。

――住んでいたマンションにも住めなくなった?

マンションが阪急六甲だったので、本当に見上げれば六甲山が北にあって。住んでいたそこの建物は、半壊なのね。だからまたマンションを探せば、六甲や関西に住めたと思うけれど、肝心の職場の出版社自体がなくなったので。「まぁ、こんな状況でグルメ雑誌を出してもしょうがないだろう」というムードもあったし、当時は。

――それはまた大きな、外側からの人生の転機になりましたね。そしてご主人のいる東京へ行くことになったんですね。

ところで、私は、いつも永島さんとご主人との関係を見ていて、どんなに永島さんから仕事で辛く当たられても(笑)、「この人は信用できる」って思っているのですが・・・。

ご主人とのなれそめを語っていただけませんか?

そんなこと喋るんだ(笑) 全然いいですよ。

『あまから手帖』っていう出版社にいるころに、取材したい対象者だったんですね、旦那が。

そのころ、彼は東京でいろいろな音楽の仕事をしていたんだけど。当時、男の料理みたいなのが流行ったときで。でも、大概のメディアに載っている男の料理は、「肉を3キロ仕入れてきて朝からコトコト煮込む。スープの寸胴鍋でカレー何人前。で、どうだ!男の料理だ!」って。その後の茶碗洗いは誰かする? みたいな。

私にしてみたら、「何それ?」の感じだったのよ。それが男の料理って言われても、違うじゃんと。

でも、出会った時の主人がやっていたのは、まかない料理っていうか、貧乏くさいというか、ちまちまというか、おうち料理だったんですね。

家庭の冷蔵庫の残り物ですぐできちゃうとかで、雑誌の『クロワッサン』とかに出たりしていて。

で、取材対象を考える時に、こんなイメージの男の料理で、料理できる人を知らないかと、そのころ一緒に仕事をしていた関西のカメラマンに伝えたら、「一人おるで~、おっさんが」と。

「取材旅費は払えないよ。大阪についでの時があるならってお願いしてみて」と私。

うちの旦那は、東京で「田川律(たがわ・りつ)」の名前で仕事をしていたんですね。

取材依頼をしたら「ええよ」とふたつ返事でOKに。でまぁ、取材をしたわけです。

――で、どこに惹かれて?なにかきっかけがあった?

取材が終わったら、その田川(主人)が大阪出身で、友達が多いから、一緒に今から友達とご飯食べますけれど、「永島さんもいらっしゃいませんか~」みたいな感じで誘うわけ。大阪から彼の友達を誘って、3人で神戸に食事に行ったのね。

神戸行の電車の座席が向かい合わせのタイプだったんですね。そのボックスシートの窓の所にちっちゃな台があって、その棚にお菓子置いたりなんかするよね。

電車に乗った時から、そこにあるワンカップのお酒の空き瓶が置き去りになっていたんです。3人でしゃべりながら、私は空き瓶が気になりながら、「もう、そろそろ着きますね」とかなって。「次は何とか~、何とか~」って駅の名前がアナウンスされて、じゃぁ次、降りましょうってなった時に、うちの旦那がさりげなくそのカップを持ってホームのゴミ箱に捨てたんです。

「お?ポイント高いじゃん、この人」

男の人で、さりげなくこういうことできる人なんだ、と。

それはやっぱり編集者というか、記事を書く側の目で絶えずその人の採点って言うとちょっとおこがましいけれど、どんな人かなと絶えず見ている。

そうか、こういうところはちゃんときちんとするんだと、ポイントが加点されたんですね。

今も、大上段に構えたところもないし、おとこおとこしたところがない人ですが、普通に普通のことをやっているっていう、なんかそういう「さりげなさ」に、その時にちょっと惹かれたんだよね。 

――ご主人とは26歳の年の差ですよね。周囲の反応は?

大反対。

何よりも、絶対に OK するだろうと思っていた両親が、反対したのには驚きましたね。私のことはオールオッケーな人たちなのに。

昔から、友達もよく家に連れて行ってたし。お正月に友達連れてくるよって言ってオッケーオッケーって言っていたのに、結婚する相手が来るとなったら・・・。

私は家に泊めてくれるもんと思っていたんです、福岡の実家に。そしたら、それはなくて、博多駅のビジネスホテルを探して、彼はその時、ひとりで寂しく泊まったんだけど。

――歳の差があるから、反対された?

そうそう。

26(歳)の差なんか、もう、「どうしたとですか?」みたいな感じ。

それと家がやっぱり、九州のね。ものすごく小さな100軒足らずの集落に、1/3が永島ですみたいな感じでの親戚ばっかりでしょ。

だから「義一さん(父の名前)とこの美奈ちゃんはすごいばい。20なんぼも離れた人と結婚するげな」みたいな空気がある。

そりゃぁ、いわゆる世間体というやつじゃないですかね。

――それをどうやって乗り越えたのですか?

私が両親が大好きで、その両親も私のことがめちゃめちゃ大好きで。その私が選んだ人にダメだって言う理由がないな、と。

だからアプローチの仕方があるんだなと思ったんですよ。彼を知ってもらうという。

彼を知ってもらう、もらい方。なんかいきなりどうだっていうんじゃなくて、なんかやっぱりあるんだろうなって。その時はちょっとレッスンしたのね。

それともう一つは、亡くなった兄が自死だったんですけれど、兄貴は一行(かずゆき)という名前で、亡くなった後にうちの父親が「一行が、どうして美奈子が選んだ人の結婚を反対するんだって夢で言ってきた」っていうんだよね。うちの父親は、その夢のことは、もう覚えてないっていうけれど。

そのときは、はっきり夢で兄貴が言ってきたっていうんですよ。

それで「まあいいじゃん」と加速して。

私はとにかく、田川を会わせる機会を多くしたのね。

福岡の実家に帰ってきたら、旦那とふたりで「海に行こう」ってなるわけ。家から歩いて1分のところが、もう海。旦那と手をつないで露地を歩いていたら、近所のみんなが窓のところで見ているの。雨戸の内で、そ~っと覗いて、見ているわけ。

「美奈ちゃんが、誰か男を連れてきたみたい」って。

で、みんなの視線を感じるわけよ。カーテンの影から。

私は旦那と手つなぎながらルンルンで、見ているのがわかったから

「あ、よしこおばちゃん、帰ってきとーよ~」とか

「なんとかちゃん、美奈子だよぉ~、帰ってきとうよ~」とか声かけて、

もう、大声でこっち側に引き込むみたいな。

そしたら、雨戸がバタバタ震えて、

「あぁ、帰ってきたとね。おばちゃんも、いま、挨拶に行こうと思っとったとよ~」とかなんとか言われて(笑)。

それでどんどん、どんどんと、うちの旦那に料理をお家で作らせて。お好み焼きしたら「習いに来てください」って近所のみんなに声をかけて巻き込むの。

――プロデューサーですね?

なんかもう必死だったんだろうね、たぶん。

「(私が選んだ人を)いいって思わないはずがない!」と。

――そして、みんなに祝福されて♪がんばりましたね~。

結婚後はご主人の仕事のマネージャー的なこともなさっているのですか?

私が仕事をしていた編集者時代は、音楽に興味がない。興味がないと言ったら、言い過ぎですが、うちの旦那の仕事を知れば面白いんだけど、自分の仕事で精一杯っていうところもあったので、彼がどこに今行って、どんな仕事をしているのかを聞くんだけど、私がそこにガンガン入って行こうっていうのはなかったな。

神戸の震災に遭って、東京に行った時に、最初に主人の仕事関係に行ったらどうだっていうのは、よく勧められたんですよね。

仕事がない無職のプー太郎だから。そこの仕事に行けば早いって。でも、なんか私の仕事は私の世界で作っていかないと、いつまでも何々の奥さんみたいな形になるから、自分でやっていくもんって。

主人は主人で、私から相談されれば聞いただろうけれどね。

でも高齢になって、だんだん体が不自由になると、彼のスケジュールは私が相手に伝えておこうかとかいう風に、自然に(マネージャー的に)なった感じですね 。

※ご主人の田川律さん 音楽仲間のみなさんと

――現在、ご主人は87歳、介護認定?

そうですね。介護認定3ね。

子供がいないから、主人が子供のようでもあり、お父さんであったり、お母さんであったり、パートナーで、同志だったり。いろんな存在。

で、何か面白い生き物と一緒にいるって感じなのね(笑)

――介護の現場にリアルにいて、愛するご主人が年老いていくのを目の当たりにしつつ、面白がるって?

大変は大変なんですよね、もちろんながら。

排泄とか食事とか、いろいろな日常的なことをサポートするから。大変は大変なんだけれど。

人が老いていって、できないこと、できることができなくなったりする事とか、その変化みたいなものを自分がこれまで味わってこなかったから。

おじいちゃんやおばあちゃんも、私が生まれた時にはもういなかったから、年取った人と一緒に暮らした感じはないでしょ。でもまあ、話は聞きましたけどね。

それと年を取った人というだけじゃなくて、自分の最愛のパートナーがそうなるわけだから、その大変さよりも、面白さというか興味が勝つのかな。

面白いね。やっぱり観察するんだよね。(笑)

――でも、その観察する目がハートなのはよくわかるけど。

愛情のある観察よ!

だからなんか、歩行器でのろ~く歩いているのをそばで見たら、本当にウミガメみたいなんですよ。(笑)

ウミガメが産卵する時に、うちの実家の海はウミガメが産卵するところなんだけど。

こう歩いてきてね、のっそのっそとマイペースできてね。動いているよね。生きているんだよね。

年を取っているから、うちの旦那がご飯食べている時にふっと、ふっと眠ったりする感じに、「あぁ、コト切れるってこうかな~」とか横で見ながら思ったりするんだけど。でも、それもわかんないし。

あと、昨日できなかったことが、なぜか、今日はできたりもするし。わかんない。

人のわかんなさ、不思議さを固めたみたいな人なのね、うちの旦那。

――ウミガメみたいって、ご本人に向かって言っちゃうわけですよね?そしたらご主人は?

「だよね~」とか笑ってるよね。

とにかく、信頼・愛情が強い。何て言うのかな、そういうので繋がっているから、ゆるぎないんですよね。だから何があっても、大丈夫よ。(笑)

――どっかで聞いたセリフ(笑)

by重岡昌吾よ(笑)

――ほかでそんな夫婦あんまりみないですよ~。

他は知らないからね。比較してもしょうがないでしょ。うちはそうなんだよね。

――最初っから?

もうすぐ結婚30年になるけれど、喧嘩をしたのは1回しかない。

その1回のでっかい喧嘩は、モノを投げつけたやつね。

神戸から上京して杉並区永福っていう所に住んでいた時に、西洋長屋みたいで一階にキッチン、上に二間みたいな所に住んでいて。狭いの。うちの旦那が元住んでいたところに、私が転がり込んだみたいな感じでしょ。

その時の私は、出版社の編集で超忙しくて、帰りがだいたい夜中になったり、会社に泊まったりもしていた時で。毎日忙しいある時、家に帰ってきたら何か、鍋をしたあとが残っていたんですよ。

「誰か来たの?今日?」って聞いたら「いやいや、僕の学生が」って旦那が言うの。

そのころ彼は、大学とか専門学校で音楽を教えて、音楽理論みたいなのを教えていたから。

「生徒が来たんだよ、4,5人」って。

「え? この狭いところに?」って私。

「来ておいしい、おいしいって喜んで帰ってったよ」みたいなね。

彼、料理作るからね。

そのころ、家の料理・洗濯、あと掃除はすべて彼がしていたのです。

「料理がおいしかった」とか言うよりも、

この汚い、掃除なんかしてない家に呼んだのぉ~?!

うちの旦那がするって言っても、男の掃除だからさ。雑やし。

この汚いところに、奥さんがいるとこに連れてきたってことが、もう許せないっていうか、しんどいわけ。

それは、裏を返せば日ごろから自分がしてないことに対する「苛立ち」というか。

前日でも「明日、学生が来るんだよ」って言ってくれたら、タオルを替えるし、トイレのマットだって替えてさ。ざざーっとできない掃除くらいしてね。とりあえず整えたいでしょ?

そのことなくして、お客を呼んだっていうことに、もう今までその申し訳ない感もいっぱいあって、自分に対しての腹立たしさも全部ないまぜになって、そこにあったものがシューズキーパー。

シューズキーパーを投げつけたんだよ。

「どうして私の気持ちがわからんの!!」と叫んで。

彼はきょとんとしていたね。

まぁ、シューズキーパーもぽわんぽわんの(笑)、なんかポプリのシューズキーパーだから、全然痛くないんだよ。

でも私は、半分泣きながら「一番こういうことが嫌いなのに」とかなんとか言って。

私だって、辻褄は合わせられるのになぜ、それができなくて我が家に呼んだんだって。学生に女の子も居たと聞いたから、なおさら、主婦の仕事のサボりがあらわになったと腹が立ったのね。

――かわいい。でもわかるわ。

だから、次の日に、すぐに不動産屋に走ったね。もっと広いとこ、ちゃんと整えられるところに、すぐ、引っ越す。絶対引っ越すって。

実際に1週間後くらいに引っ越しました。

――それが1回きりの喧嘩ね。

私の想いみたいな、どうしようもないそのマグマみたいな、ふつふつとしたものを旦那に爆発させたのはその時かな。暮らしの中の一つですね。

――永島さんも若かったのね。

それぐらい、なんか仕事に一生懸命で、旦那もそれは認めていて、いい感じでバックアップしていてくれているのに。後から考えたら、自分の気持ちが痛いほどわかる。そのぶつけるシューズキーパーのつぶては、自分に向けているんだよね。

※ 東京と和歌山の二つの拠点を行ったり来たり、神楽坂にて

――介護生活になって、最近のご主人とのやりとりで面白いなと思ったことは?

「人は最後までわかんない」ということ。

わかんないっていう意味は、「理解し合わない」という意味じゃなくて、人は不思議、面白いと言う意味でわかんないでしょ。

それは日々、旦那のいろいろな機能が衰えてきて、前見た映画も2回目観たときに、「あれ? これ見たっけ? 初めてだよね」っていうような感じがあるかと思えば、私が四文字熟語やことわざとか、会話の中でちょっと言葉の使い方を間違えたら、すぐ訂正して「それはこういう風な意味で、こうじゃない?」みたいに、素早く正解を言うの。その訂正の仕方も、すごく優しくね。

ああ、この人の頭の回路っていうのはどうなっていのかなって。

そこやっぱり、彼に興味がますます増すのね。ホント、飽きない。

――愛ある観測者&編集者の目線?

それとご飯食べる時、こぼすんですよ。

ポロポロポロポロこぼすし。時々頭(意識?)と手が繋がってないから、スプーンがこっち行っちゃったり、あっち行っちゃったりするけど。

自分の本当に好物は、こぼさないのね(笑)。

好物はすぐもう、口まで一直線。ふつうはこうきて、こうきて、ほら,止まって口はほらこっちだよって行ったり来たりするけど。自分が本当に好きなやつは、結構カッカ、カッカとリズミカルに運ぶね。

それはね、あの人なんだったけかな。そうそう阿川さん、阿川佐和子さんがね、お父さんが青梅慶友病院に入った時に、院長先生が「好物は喉に詰まらせません」って言ったんだって。

あそこの病院は自分の病室で、その患者さんのお部屋で、魚を焼いたり、酒屋からお酒を届けさせたりとか、結構自由にできるって。

阿川さんのお父さんもそうだし、他の人も、自分の好きなことをやっていると、それは全部、すべての回路がつながるのかなんかわかんないけど。

そんなことがすごく面白い。わからないことが面白い。

――ご主人は永島さんの不在で具合わるくなるのよね?

説明をきちんとして、納得しているんだったらいいけど。ちょっと心配症なんですよね 

そんなに心配してどうすんのかな?って思うけどね。

1回ゆっくり聞いてみたい。「あんた、死ぬことなんか、死ぬなんてことは思ってないでしょ」って。

「死ぬこと」は怖がりだからね、あんまり直線的に彼に聞いちゃダメだろなと思うけど。本人は、自分は死なないと思ってんじゃないかな、と。・・・わかんない。

宇野千代さんが「私は死なないような気がする」と名セリフを言ったんだけど。どうかな。

一番興味があるのは「死」ですね、私は。

今、一番興味があるね。

――だんだん、迫るものを感じている?

あるある。

最期を知らずに、自分の仲のいい人の、いい感じの時のままお別れした人がいるでしょ。だから、自分の中では元気な印象のまんま。

この世から、ひゅーっとふーっとダウンするというか、消えちゃっているじゃない。

だから、死っていう実感がないままっていうのも、最近、結構あって。

だけどいる感じはするじゃない? その人の存在が。
だからそれを思うと、死は悪くないなっていう感じがすごくするのね。

でもやっぱり、痛さや辛さが残りつつ去るのは、嫌だなとも思うし。

どうやってこう、人はトーンダウンしていくのかなっていうのはすごい興味。

――愛ある観察眼は、まずは一番身近な人へ向けるということ?

足元はやっぱりあるよね、大事だね。

よく思うのは、世界平和のために、どっかにボランティアに行くとか、海外になんか行って手助けするとか、あるじゃない。

でも、ある女性がマザーテレサの元でお手伝いするって言ってはるばるやってきたら、「ここはいいから、まずはあなたのその隣の人を助けなさい」って言われるの。

いろいろな善意の運動をして、何かを改善するぞと叫んでいる人が、隣のおばちゃんには挨拶しないとかね。

だからもうちょい、足元を見ることがあるんじゃないかと。

足元の一番は、やっぱり家族でしょ。

――なるほど。そうですね。

では、永島さんがここまで、ゆるぎなく大切にしてきたものがあるとしたら、それは何?

揺るぎないもの? なんだろうな。なんかな?

「ゆの里」のブログにも書いたけど、天の道の生えるって書いて「天道生え」。

「天道生え」って田舎では言うんだけどもね。

「美奈子は天道生え、天道生えだぁ」って、ちっちゃいころから言われ続けてきたんですよね。それはある意味、雑草の中でも生き抜く強さというか。野生児の。もちろん人間だから弱さもあるけれども。このことばには、存在そのものが認められているというか。「居ていいんだよ」っていうことを、ずっとちっちゃいころから存在として認められていた感じがある。

・・・・・「天道生え(てんとばえ)」かなぁ。

昔は、やっぱり街に出たいとか東京を目指したい感じは田舎だからこそ強くてあったの。福岡と言っても、私の住んでいる宗像の勝浦浜は、郡部の田舎だったから。その田舎を、今は、なんかあおるのも嫌だし。もうちょっと、イイ感じに田舎を見つめなおしたいなぁって、役立ちたいなと、強く思っている。

60歳になって思うのは、もう一回その元々、自分がいたところ。種が落ちてパーと芽が出た「天道生え」的なところの存在。

お天道様のところでは、水とか肥料の心配とかしなくて、自然の中で芽が出て育つみたいな意味合いの存在を見つめなおしたい。

ああ、そういうふうに私はそこに落ちて、今があるんだなって

最近、すごく強く感じるのね。

父親が自分の丹前や浴衣の中に、幼い私をすっぽり入れて、「もう美奈子は天道生え、天道生え。だから何があっても大丈夫」って、そう言いながら頭を撫で続けた安心感。

大きくなって、なんかあった時に、「大丈夫かな?このままで」って思うことはいっぱいありますよね。右と左があって、左を選んだ時にもしかすると右の方がよかった?っていう思いは、毎日が選択の日々だから、いっぱいあると思うんだけれど。

でも、その自分が選んだこととか、動いた、歩いてきた道っていうのは、「でも OK よね」って確信がある。

私の芯は、多分、そこにある。

ずっと言われ続けてきた感じかな。「天道生え」。


――「天道生え」な永島さんの半生。編集者目線は“愛”に満ちている……。

すてきなお話を聞かせていただきました。今日はありがとうございました!

人に依存しない。自分で決めて、自分で受け取る
イー環境を繋いでいく
自分をだいじに。
自分の中から湧き上がるものに耳を澄ます
「自分に嘘をつかない」
まず、自分を愛で満たす
死ぬ時が人生の最高峰(前編)
「大切」をちゃんと大切に。