一般社団法人シンギング・リン協会代表理事、一般社団法人国際個別化医療学会評議員。
静岡大学大学院、上智大学カウンセリング研究所卒業、教育学修士。臨床心理士・心理カウンセラーとして活躍後、ロサンジェルスとニューヨークに8年間暮らし、長女の闘病、9・11を現地で体験し帰国。2004年12月に、究極の倍音を奏でる音響楽器『シンギング・リン®/漆黒』を開発。奇跡的な共振共鳴現象によるオリジナルの音響療法も構築し、国内外でのセラピスト・パフォーマーの育成に尽力している。2019年にはラピスラズリと漆による、世界初となる瑠璃色の『シンギング・リン®/瑠璃』を発表した。大学との学術研究でも奇跡的な音響効果が認められ、バランスを崩した多くの現代人の体・心・魂の健康に貢献している。
オリジナルCD『聖なる鈴響』、『音神話』。 著書『全倍音セラピーCDブック』(BABジャパン)、『聴くだけで免疫力が高まる全倍音セラピー』(フォレスト出版)他。
https://www.sion-inc.com/
https://www.singingring-association.com/
『聴くだけで免疫力が高まる全倍音セラピー』
フォレスト出版
——こんにちは、今日の「みずのたま」インタビューは「シンギング・リン」という楽器を開発された和真音(かず・しおん)さんにお話を伺います。真音さん、では自己紹介からお願いします。
私はご紹介いただいたように「シンギング・リン」の開発者と、皆さんに紹介されることが多いですね。
「シンギング・リン」自体は20年前に構想をして2年かかって試行錯誤して、やっと作り上げまして、今度の12月で19年目になる音響楽器なんですね。
もともとは、私は大学で幼児教育の心理学の助手をやって。それを教えていたりしていていたんですけれども。
――では、その大学で幼児教育をやられた頃から、楽器や音に興味があって開発に至ったんでしょうか?
いえいえ。その時は私は大学の教員になるとずっと思っていて。最初は助手だったんですけれども。
その後主人と出会って、割合と電撃的に結婚してしまったんですね。そうしたら主人の仕事が海外であるっていうことで。8年間、ロサンゼルスに4年、ニューヨークに4年、主人の仕事で行くことになりまして。子供が一人は日本で生まれたんですけども、もう一人はロサンぜルスで生まれて。当時は海外での生活と子育てで、もう精一杯でした。
「アメリカで勉強すればいいよ」って主人は言ってくれてたんですけど、それどころじゃなくて。主人は忙しいし、子供はやっぱり私が見なきゃいけないし。
さらに下の娘がですね。生後3ヶ月で小児がんを発症して、ちょっと大変になったんですね。6年間闘病したので、まあ向こうで出産したので、アメリカ生活はほとんど娘の闘病生活と重なってましたね。結構大変でしたね。
――そのお嬢さんの闘病生活が、何か「シンギング・リン」の開発には関係してるんでしょうか?
やっぱりそれはすごく大きくて。私は心理学をやっていたので、「心が錦(にしき)なれば、外見なんて!」って、割とそういう感じのところがあったんですけども。
娘のがんが実は左目にできたんですね。それで左目が青いコブのように膨らんでいて、手術はしないで温存療法を選ぶということになったんですけれども。
その青いコブを見たご近所さんが虐待の母親だっていうふうに思って、ロサンゼルスの警察に通報してしまったんですね。
それで虐待の嫌疑をかけられて、公園で遊んでた時に逮捕されちゃったんです。それで子供の身体検査をしたら、娘は蒙古斑が結構すごくて、手にもあざがあったりとかして。「これは何だ?」っていうことになって。
――西洋の方だと、赤ちゃんに蒙古斑はないですもんね。
それで、小児科のお医者さんと主人に助けてもらって、それは虐待じゃなくて、病気なんだっていうこととか、日本人特有の蒙古斑なんだっていうことを証明してもらって、なんとかことなきを得たんですけれども。
娘の目が青黒いコブのまま、そういう状態で外で遊んでると、そういう誤解を生じてしまうんだ。見た目がものすごく左右するんだってことを痛感して、娘にファンデーションを塗ってそれから遊ぶようになったんですね。
その時に本当に考え方がまず一つ大きくガラガラガラガラと変わったんですね。見た目もちゃんとしないといけないんだって。
それと、目にできたっていうのがすごく大きくて。実は左目がほとんど見えてなかったんですね。
そうすると右目だけを使うんですけれども、神経は斜めに交差していて、左目が右脳に対応するので、右脳が退縮して成長しない。脳がしっかりと成長しないと精神薄弱になっていくと言われてしまって。
左目を強制的に見るように訓練が必要だっていうことで、右目を一日5時間隠して、左目を強制的にビン底眼鏡で見るようにするっていうリハビリっていうんですかね?トレーニングが毎日あるんです。
けれど、娘としたらものすごい嫌なこと。泣き叫んじゃってすごい大変なのをなだめすかして、なんとかトレーニングを毎日毎日していました。
その時に目と脳という関係性を学ぶことになったんですね。人は目から得た栄養で脳を形作ってるんだって。そういうことに気づいたんですね
私たちは見るという刺激によって脳が発達する。さらに耳は聞くことの刺激によって脳が発達するのですよね。
まずは私は娘の病気で視覚からそのことに気づいて、それで色を勉強し始めてるんです。
太陽光線があれば私たちは色って判別できるんですけど、真っ暗闇では色ってないんですよね。モノトーンになっちゃうので。
ということは、実は光エネルギーを私たちは脳が感知して、それを栄養にして、そして脳を発達させて、そしてさらにそれを視るっていう感覚に変換してるんだっていうことが分かった。これはすごい大切なことなんだということ。
そこから色と脳の関係性。色って言っても実は波長だっていうことに気づいたんですよね。
人間はね、七色だと思ってますけど、実は動物や昆虫や生きとし生けるものは私たちとは違う感覚で色を見ていたりするっていうことも分かって。科学的にすごく面白いなっていうことに気づきました。
――お嬢さんの病気がきっかけではあったけれども、本来の研究者魂みたいなものは失わず、脳と光の関係とか、ずっと探求してらっしゃったんですね。
娘の病気ではね、もう本当にいろんな、たくさんの気づきがありました。
異形(いぎょう)の様相を呈してるわけですよね?そうするとね、宗教の勧誘なんかいっぱい来るんですよ。(笑) どこから聞くんだろうって思うぐらい。
本当に迷ってる家族を助けたいっていうことなのかもしれないんですけども。もういろんな方が訪ねてきてくださって。
「こうしたらよくなりますよ」って言ってくださるとともに、教典を置いていってくださるんですね(笑)
それでもうね、10種類ぐらい経典が、ずらっと並んだんですよ。藁をもつかむ思いで片っ端から読むんですよね。なんとかなるんじゃないかと思って。
そうしたらね、正直どれも同じことが書いてあるってことに気づいた。本当に表現は多少違えど、言ってることは「愛と調和だ」っていうことに気づいて。それで、結局どこにも入信しないで、今に至るんです。
もともと私は神道の家系に生まれたので、キリスト教とか仏教とかも縁がなくて、「天照大御神」っていう掛け軸の下に寝かされて育ったみたいなところがあって。八百万の神みたいな感じできてしまったんですけれども。まあ、その時が一番、宗教のいろいろな神々様の勉強をしたかなっていう感じだったんですね。
――ある意味、真音さんはお嬢さんの病気で大きな学びを得たということだったのですね。
そう、そして最後は家族でニューヨークにいましたので、9.11を家族全員で経験してしまうということになりまして。
主人はマンハッタンにいまして、帰ってこない。最初は生死が分からない。
私たちは郊外に暮らしてたんですけれども、煙は見えている。それと上空はステルス戦闘機っていう真っ黒い、すごい要塞みたいな戦闘機が飛んで。もう真っ暗闇になったりとかするし。
学校は1ヶ月間は子供の数だけランチボックスを一つドネーション、寄付しなさいっていうことで。私たちは子供が二人行ってたので、毎朝四つランチを作って、二つは消防士さん達やいろんな片付けとかをするボランティアの方達のランチを寄付するっていうことをずっと続けていました。
正直大変でしたね。白人の中に暮らしていたので、黄色人種である日本人もテロリストだって。あの真珠湾攻撃をやったのもお前達なんだっていうふうに言われたりとかして。
子供がそれでいじめられて、息子がちょっと学校も行けなくなっちゃったりとか。まあいろんなことがあったんです。
星条旗を掲げておかないとちょっと危ないとか、ご近所にもなんとなく不穏な雰囲気があったりとか。いろんなことがありましたね。
――実際にその渦中にいた人でないとわからないことですね。
白い粉が送りつけられてくる炭素菌騒動っていうのもあって、それを吸っちゃったら全員死んじゃうとか。まあそれは後で国内犯だっていうことが分かるんですけども。戦争に向かってどんどんどんどんアメリカが邁進していくので、もう皆なんかおかしくなっていくんですよね。
銃社会。「みんな銃を持って!」みたいな、そんな感じになって。すごく怖かったですね。
――そして日本へご家族で帰国?
9月から半年後、やっと日本に帰国になりました。子供達が日本で学校に通い始め、なんとかなったってほっとした途端、今度は自分が免疫不全の病気になった。もうやっぱり、頑張り過ぎたんだと思うんですよね。
それからどんどん、どんどん、起きられなくなって、熱が出て。病院に行っても何かの細菌が体に入っていたずらをしている。それがなんだか特定できないから次々抗生剤が処方されて。何かがあれば、抗生剤で劇的に良くなるって言われるんですけど、どの抗生剤が当たるか分からない状態。大学病院でも分からない。
それで今度は胃がやられて、食事もできなくなって衰弱していって、最後に起きられなくなる状態になって。もうこのままだったら死んでしまうって思ったので。
もうそこからは「全部の薬をやめる!」っていう自分勝手な選択をしました。そこから本当に少しずつ這い上がるようにして起きられるようになって。そういう半年間を過ごすんです。
その時に「この命が何か地球に、平和のために役立つなら何でもします」って。
・・・すみません、なんか思い出しちゃって。
そうこうして、治っていく過程の時に、いろんなビジョンとか、自分の中に湧き上がるものがいっぱい、いっぱい思いつくものがあって。それを書き付けていた。
それは一度にじゃないんです。ちょこちょこちょこ、いろんなビジョンが、物事とか言葉とかが、どんどん湧いてくるっていうことが起き始めた。
それをどんどん書いていたんですね。書いていくうちに分かったこともあって、それの一部分が「シンギング・リン」にも繋がってくるっていう感じなんです。
――なるほど、シンギング・・リン誕生のきっかけはそんな時に!なにか神がかり的でもありますね。
やっぱり創造とかクリエイティブなものの発想って、そういう思いもかけないところから生まれてくるんじゃないかなというふうに思います。
私はいたって正常なつもりで、思いついたことをどんどん書きつけたり、言ったりとかしていたんですけれど、隣に主人がいてそれを聞いていて。私の頭がおかしくなったんじゃないかと思って、すごく心配して、「病院に行った方がいいんじゃないか」っていう感じだったんです。
この「シンギング・リン」という楽器が、今あるからいいんですけど、楽器がない時から、「素晴らしい音があって、その音が世界中で鳴り響くの」とか、「それが世界を平和に導くの」とか「その音が鳴ると星がくるくる回るの」とかって言ってるわけですよ。
ですから主人はもうね。「ちょっとおかしいな」って思っただろうなって思うんですよね。
――ということは「シンリング・リン」ができる前に、その音のイメージが先にあったんですね?
音がありましたね。音とか形とかイメージとか。正直この先にこの音が世界中で鳴り響くビジョンとかも。もう全部、楽器を作る前に自分の中では構築していたっていうんですかね。
でももうじき20年経とうとしてますけど、着々とその通りになってるんですよ。
「シンギング・リン」という楽器のことだけを開発したと皆さん思われるんですけど、実は楽器だけじゃなくて、使い方とか、音響ヒーリングでどういうふうにやるかというカリキュラムも全部作ってる。頭にかぶってやる方法とか、体に響かせてやる方法とかは全部新しくて。
どこかの世界のどこかのメソッドを勉強してやったとかじゃなくて、全部新しいものを出してる。それも全く何ていうか、(イメージの)構想というか、いろんなことから生まれてきてるものなんですね。
――なるほど、それは未来からのビジョンを受け取ってそれを実現したということ?
そうですね。未来にあったものを実現していってるっていうのは、人によってはそれを「夢」っていうかもしれないですけど。でも最近はもう皆さん「予祝」とか「思ったものは叶う」とか言われるようになったんですけど。私は20年以上前から、「勝手にそうなる」って信じこんでるっていうか(笑)。そのパワーが強いのかもしれないですけど。
――自分ではそういう風に思っていても、実際カタチにしていく過程では人の力も借りないとできないですよね?
そうなんです。私が作れるわけじゃないので、それを作れる人はどこにいるのか?っていうところから探しに行かなきゃいけなくて。それがやっぱり見つからないんですよね。
だから今も他の構想もあるんですけど、まだそれを作れる人がいなかったり、技術がなかったりっていうものもあるんですけど。
だから適時、適時に人に出会えると、「あ、これだ!」って分かっていって、なんとかカタチになっていくっていう感じですね。
――そういう、思い描いていることを実際に作ってくれる人に出会うためのコツというかポイントってあるんでしょうか?どうやって出会えてきたんですか?
すごい不思議なんですけど。でもやっぱり試行錯誤を繰り返したっていうのもあると思います。
シンギング・リンの場合は、まず最初に、似てるものがチベタンボウルだったので、チベタンボウルのようなものを作れる人だったら作れるのかなと思って。
そうしたら、最初ネパールだったら作れる人がいるって言って。ネパール人の所に行って頼むんですけど、私が思うような精巧なものは全然作れなくて。
チベタンボウルは雪ひら鍋みたいな感じで作るんですけど、私が作ろうとしてた物はもっと精密なきちっとした精巧なものだったので、全く技術がないんですよね。
それでもう発想の転換っていうか、日本のおりんを作る形だったら作れるのかなと思っていったんです。でもおりんのメーカーさんからしてみても、削ってこの形にするっていうのも全く発想が違うんですね。
おりんは鋳造だけで作っているから、それをきちっとした形に削る。音も360度一緒に、とか言ったら、もう全然「そんなことできない」って言われて。
でもそれを「じゃあ、どうしたらできるか?」っていうのを職人さんと話しあいながら、新しいことをなんとかやってもらうっていう。やっぱり、そういう話し合いの中で信頼関係ができていったということですね。
――そういう地道なことを積み重ねて・・・
ありがたいことに、出会いが不思議な連鎖を生んでいくっていうのはありました。
バチも実はオリジナルのバチなんですけど。なんとこのバチを作ってる職人さんがもう今、日本でお一人きりっていうか1社だけになっちゃったですよ。
海外にはあるのかもしれないんですけど、コロナでどんどんバチ屋さんとかどんどん減っちゃった。実際バチを使うものって意外にありそうでないでしょう。
だからこういうものを作れる職人さんがいなくなって。私が20年前に出会ってた職人さんはその最後の一人なんですよね。
だからもうすごいなって思って。
正直、神がかってる思うぐらいの出来事に支えてもらってるっていうか。一生懸命やってたら、なんかちょっとご褒美いただいてるのかな?っていうところはあると思うんですよ。
――そんな風に進んでこられて19年。ちょっとこれは辛かったな、大変だったなという出来事はなかったんですか?
山ほどあります!
私、テーマソングがあってね。「ピンチ、ピンチ、チャンス、チャンス、リンリンリン♪」って歌ってたのが私のテーマソングなんですけど。
ピンチはチャンスで、その時こそリンを奏でるっていう、そんな気持ちでやってる。
大体困ったことっていうのは、それが解決すれば新しい扉が開くじゃないですか。だから困ったことが起きたら、これはきっと新しいワクワクに繋がるんだって必ず思い変えて。
すぐには思い変えれない時は、本当にリンをたたいて、「リンリンリンリン」ってたたいて。そうしてるうちに自分の気持ちがどんどん明るくなってくるので、それでなんとかいい方向に持ってきてる。そう、ですからすごい助けてもらってます。
私は「ピンチ、ピンチ、チャンス、チャンス、リンリンリン♪」なんですね。
――そうして、数え切れないピンチを乗り越えてこられたんですね。
今でこそ、みんながシンギング・リンのことを知ってくれてるし、「すごく素敵なものですね」って。
大学の研究もいっぱい出たから。左脳的な立証もできたのですごく認めてくれるようになったんですけど。
当初はわかってくれる人はいましたけども、分かってくれない人は「なんか怪しい宗教だ」とか「なんかちょっとおかしい」とか、私のちゃんとした友達達も「近づくのやめとこう」みたいな感じにやっぱりなっちゃって。
はい、それはちょっと辛かったです。
――では、最後の質問。真音さんが今まで自分で大切にしてきたことがあるとしたら、それを言葉にするとしたらどんなことでしょうか?
本当に言葉にするのは難しいんですけど。最近少しそれを自分の言葉にまとめているところなんです。
それは「六方良し」ていう言葉にまとめたんですけどね。
「宇宙よし、地球よし、社会よし、仲間よし、家族よし、自分よし」。これが全部叶うことが真理だというふうに思うんです。
でもなかなか難しいじゃないですか、これって。「自分よし」っていうのは、自己犠牲しちゃう時があると思うんですよ。地球のためにとか。それも駄目だっていうふうに思ってて。
「自分に、ちょうどいい」っていうのを「 just right 」っていうふうに言うようにしています。
自分が心地よいことで、自分の家族にもいい、そして仲間にもよい、社会にもよい、地球にもいい、宇宙にもいい。この方向性で広げていく。
そういうのがとっても楽チンで幸せになる方法なんじゃないかなって思ってるんですね。
なので自分にちょうどいい感覚っていうのを、みんなで分かちあっていこうよって。それを共振共鳴していこうよっていう、
そうすると自分のちょうどいい感覚っていうのが分かってくると、人と比べなくなる。私はこれでいいんだって思えるようになってきて。
「これでいいからこの人もそれでいいよね?」っていうそういう調和のあり方っていうを皆で共振共鳴して、「ありがたいね」って思って生きていく社会。こういうのを一緒に目指そうよって。そういう思いでいるんですね。
自分がそういうふうになれたら、きっと周りもなれるから。皆でそれを試行錯誤していこう。そういうふうになりたいなって思うところから、この「六方よし」は始まると思うんです。
みんなね。頑張り屋さんだから、環境のことを言う人は「地球よし」のために頑張らなきゃとか、「家族のために自己犠牲を厭わないで」とか、「社会のために戦うぞ」とかって。やっぱりそういうふうに皆どこかに力が入っちゃいそうなんですけど。
バランスよくそれを考えていくっていう考え方をみんなでしていったら、なんか「平和」っていうとあれですけど 「調和」なんですよね。
それで心地よい、そういう日常が生まれるんじゃないかな?って。ちょっと肩の力を抜いて一緒にやっていきたいなって思っています。
――確かに、自分、家族、社会、地球、宇宙ってその順番で「串刺し」になっていればいいですよね。どこかがずれてると、ちょっと幸せ感がなくなるかもしれないですね。
そうなんですよ!「串刺し」そうですね。
―― 真音さん、今日は素晴らしいお話をありがとうございました!!