2022.4.12
自由に、楽しく。

高島 亮

DJかたりすと・正観塾師範代

新潟県生まれ。
東京大学卒業後、大手化学メーカー、出版社勤務を経て、株式会社ぷれし〜どを設立、代表取締役になる。
小林正観さんの教えを伝える「正観塾」師範代としても活動。
講演会や講座の主催、自らの執筆や講演活動を通じて、「毎日が楽に楽しく豊かになる」きっかけやヒントを提供している。
著書に『すべては見方次第』(扶桑社)、『「おまかせ」で今を生きる』(廣済堂出版)などがある。

ぷれし~ど

『「おまかせ」で今を生きる』
(廣済堂出版)

――こんにちは。みずのたまインタビュー。今日は高島亮さんに来ていただきました。

こんにちは。高島亮です。

――いつも高島さんのことを、「亮さん」と呼ばせてもらっているので、今日も「亮さん」と呼ばせていただきます。では、どうぞよろしくお願いします。

よろしくお願いしまーす。

――高島亮さんとは長いお付き合いになりますね。

そうですね。もうどの位?

20年近くですね。

――でも、うす~くなが~いお付き合いなので(笑)、逆に今日は深く、亮さんってどんな方なのかちょっとお伺いしたいと思います。

それはありがたい話なんですけどね。

あの、僕、見た目も薄ーいもんですから(笑)、見た目も人間も薄っぺらいので、あまり深く入っていけないかもしれませんけどね。

――ふか~く、お願いします。

では、高島さんのことをご存知ない方の方も私の周りにはいらっしゃるかもしれないので、まず簡単に自己紹介からお願いします。

自己紹介はですね、高島亮と言います。  

高島亮です。

何を言いましょうかね。住んでいる所は、東京の大田区というところ。

「お宅は大田区」といつも言っているんですけど、

――お宅は大田区?おおたく?おたく? 分かった~!!(笑)

でも、帰る時はなぜか帰宅(きたく)。

――北区。赤羽になっちゃうんですか。

そっちの方かもしれないですね(笑)

――あのですね~。最初にお断りしておきたいんですけど、亮さんのしゃれについていけないかもしれないので、その時には、フォローよろしくお願いします。

どうぞどうぞ。そうそう、しゃれってね。ほーりー(聴き手:堀場)は言ってくれたんですけれども、ダジャレ、「だ」がついて大丈夫です。

――大丈夫ですか?私、理解度、幼稚園レベルでお願いします。

僕は、それが仕事なもんですから。

――それが仕事って面白いけど、本当は、仕事は何なんですか?

仕事はですね。ま、本当にダジャレが仕事なんですけど、僕にとってはね。

「仕事は何してるんですか?」っていう風に聞かれるんだけど、何でしょうかね。

なんかあんまりね、あんまりパッとこれです、って分かりやすい感じでいつも話せなくて。

今日、緊張してて話せないわけではなくて、いつも話せないんですけども、一応、うん、かたちとしては、東京で「ぷれし~ど」という会社をやっていまして、「ぷれし~ど」というのは、「プレジャーシード」という「喜びの種まき」っていう「喜びの種」とかね、それの略、縮めたものなんだけど。

やっていることは、講演会とかセミナー、あとツアーとかの開催、主催する会社ですね。

講演会って行かれたことある方いらっしゃるかなぁと思うんですが、それの主催者、それがひとつ。

――主催もされるけど、ご自身も講演もなさる?

そうですね、講演。

どっちかっていうと、「公園」で遊ぶ方が好きなんですけど(笑)

――(笑) 私も何度か、亮さんの講演とかワークショップに参加させていただきましたけど、何か一緒にいるだけで、笑顔になるっていうか、力が抜けるというか。

何、学んだのかはよく覚えてないんだけど・・・。(笑)

皆さん、そうおっしゃいます(笑)

――不思議な魅力の持ち主でいらっしゃいますよね。

ありがとうございます。

――ところで、亮さんって、東京大学をご卒業と聞いています。お子さんの頃はバリバリにお勉強してきたガリ勉くんタイプだったんですか?

ガリ勉では多分ないと思いますね。あの、体はガリガリ、ガリな方です(笑)。ずっと痩せなので。

子供の時は、僕、新潟の出身なんですけど、まあまあ田舎のちっちゃな町なので、外でよく元気に遊んで、体型も“やせ”、結構、“やせ”い児(野生児)なタイプの方ですね。ガリ勉よりは野生児の方。

本当、外でね、ずっとみんなと遊ぶのが好きで、結構元気なやんちゃな方だったかなと思います。

――塾行ってお勉強してってよりは、野山を駆け回る?

そうですね。野山ってほどの山ん中ではなかったんだけど、でもとにかく遊びが大好きでね。で、塾は行ったことがないですね。

――塾に行かずに東大入った?すごい!

あ、塾、行きました^^;。

高校まで塾は行ったことがなかった。その後、まあ浪人をして、その時に東京に出てきて、で、ちょっと名前はね、言えないんだけど・・・。あの、某河合塾、っていう塾に行きましたね。1年行きました。

――みごと、東京大学に入られて。専攻は何だったんですか?

・・・専攻ですか?
大学時代一番打ち込んだのは、一生懸命やったのがね、サークルです(笑)。テニスサークル。

――ちょっと、軟弱な感じ?

軟派って言いましたよね?(笑)その通りです。

僕ね、中高と陸上部だったんだけど、陸上部で運動もスポーツも好きで、結構得意な方だったんです。

その頃ね、テニスブームっていうのがあったんですよね。みんなちゃらちゃらやっているわけですよ。

――春はテニス、冬はスキーみたいな、ね。

そうそう、そうそう。そういうの見ながら、僕はほら、ただ走る。

僕はジャンプする方だったんだけど、高跳び。高跳びだったんですけど。

そういう、どっちかっていうとちょっと地味な・・・でしょ。ちゃらちゃらした感じはなかったんだけど。

そのテニスのブームをみて、「あんなちゃらちゃらしやがって」みたいな。「あんなのスポーツじゃねえ」ぐらいに思ってたんだけど。

ある日テニス部の友達とね、テニスをすることになって、やったら全然できなかったんですよ。

あっ、これ難しいと思って。結構馬鹿にしてたけど、あ、難しいなあと思って、これ面白いと思って。

それで大学はね、体育会には入らなかったんだけど、テニスサークルに。

――テニスはまじめにやったんですか?

テニスは割とね、一生懸命やるサークルで、結構メジャーサークル。大学の中でもね、人気サークルだった。

入るのがね、大学入るより難しいんですよ。ほんとに。

大学は、倍率3倍くらいです。そのテニスサークルは、入るのに倍率8倍なの。

――わー!!それはどういう選考基準なんですか?

高校までにテニスをやったことがあるっていう経験者枠と、やったことがないっていう初心者枠と分かれていて。

男だけそういう選抜、セレクションと呼んでいたんだけど。女の子は、入りたい人、みんな入れるっていうね、そういうサークルなんだけど。

男はその経験者枠10人、初心者は8人って言われて。

経験者は仮入部期間っていうのが4日間あって、その時に先輩と打つんですよ。それであいつ上手いな、こいつにしよう、って先輩が選ぶのね。

で、初心者は、その時にボール拾いとか声出しとかしながら先輩と話したり、あと面接があったりしてですね。

――それは何を見てる?

なんでしょうね。

――かっこいい人順?

もちろんそうだと思いますけど(笑)。

それが、後から聞いたのは、新二年生が新しく入学してきた一年生を選ぶんですよ、毎年。その新二年生の学年ごとに、今年はこういうやつを取ろうというテーマをね、それぞれ新二年生が決めるんですって。

それで僕らを取った時のテーマは、なんだと思いますか?

――身長178センチ以上。

身長採用じゃないですね。それでも入ってたと思いますけど。

――えー、なんだろう?声が大きいこと?

あ、声はね。僕はあまり通らない方なんですけど。

――ダジャレが言える?

そこは一切求められなかった。(笑)

――何でしょうか。

爽やかな風が吹くようなやつをとろうって。

――えー?!(笑)爽やかな風が吹いたんだ。

吹いたみたいですね(笑)

という、そういうので入って。8倍だから、張り出されるんですよ、結果が。見た時、めちゃめちゃ嬉しくて。大学合格より嬉しかったですよ、ほんとに。

――なかなか素敵な東京大学時代ですね♪

あと、テニスが終わると下北沢か渋谷に飲みに行くんですね。テニスと飲みと、それが終わると雀荘に行って麻雀。

だから、テニス・飲み・麻雀、ね。で、またテニス・飲み・麻雀。「三種の神器」、ずっと。

――それで4年で卒業できたんですか?

できました(笑)。

同じクラスのね、人のノートをコピーさせてもらって、それのおかげです。

――東京大学テニスサークル部卒っていう感じですね。

そうなんですよ、ほんとに。

僕はでも、大学に入ったことというより、あのサークルに入れたことの方が、本当、自分にとってよっかったな~と思いますからね。

――卒業後就職されたのは一般企業?

はい、普通のサラリーマン

ちゃんと毎日、会社に行ってましたね。行ってたんだけど・・・。

いい会社だったし、周りの皆さんも本当にいい人ばかりだったんでね、その点は恵まれてたんだけど。僕、その仕事にあんまり興味がもともとはなかったし。名前も知らない会社に入ったっていうのが根本で、あんまりその仕事をやっててもこれはやりたい仕事だったとか、そういう感じはなくて。

でね、半年くらいたってから「あぁ、もうこの仕事じゃないないな」って。

――半年?

短いでしょ。配属になって4.5か月たった頃からな。担当を持つようになって、お客さんのところへも行かせてもらって。

お客さんも別に嫌なお客さんじゃなくってね。ま、相手も会社だったんですけど。

一応、まじめにはやったてたつもりなんですけど。

自分でもやっぱり転職するよなって思うようになって。ここに10年20年30年いるイメージは、なんかできなくて。でも、何がやりたいかわかんなかったんですよね。

でもここじゃないってずっと思って。ま、手抜いていい加減にやってたわけじゃなくて。やだなって思いながらも残業とかもすごいやってたんですよ。

――目の前のことはちゃんとやるタイプ?

そう、要領もよくなかったから残業時間も多かったんだと思うけど。

――でもやめたい、ここじゃないって思いはずっと?

そうそう、ずっとあってね。日曜の夕方になるとね、サザエさんがね。会社の独身寮で夕食食べる時に、サザエさんがやってると「あぁ、明日月曜日かぁ」って。

サザエさんブルー”とかになったんですよ。

(日曜の夕方になると月曜からの仕事を考えて憂鬱になる「サザエさん症候群」)

でも3年はまぁ、いたのね。

――えらい!

石の上にも3年ってね。それで4年目に入った時に、自分担当の取引先の商談が終わったお昼休みに、東京の八重洲ブックセンターって大きな本屋さんに行ったの。そこに精神世界ってコーナーが、今だとスピリチュアルっていうんだけど、当時はそういう言葉がなかったから精神世界って。そのコーナーに。そういう本が好きだったから。

――そういう世界が好きだったのは前から?

そうそうそう。

――子供の頃、物心ついた頃から?

物心っていうほど早くないんだけど。一番最初のきっかけは、多分小学校6年生ぐらいなんだけど、親父がですね、親父は学校の先生だったんだけど。生徒の引率で修学旅行に行って、それのお土産だって言って、ある日突然本を3冊買ってきてくれて

その1冊が『超能力入門』。

――え?学校の先生だったお父さんが、いきなりそれを?意外。すごいですね。

すごいでしょ。そんなこと、かけらも話さない、かけらも興味がある親父じゃないんですよ。当然そんなの買ってきて。

あと、『ピタゴラスの大予言』っていう数秘術の本。あと般若心経の本。

多分小学校6年生か中一のころ。

――お父さんは亮さんの興味を見抜いてたんですか?

いや、わかんない。そんな話、その前もそれ以降も一切したことないですよ。

でも、読んで面白いって思ったのが一番最初なんだけど。

大きかったのは高校に入った時に。「仙人になる」っていうような内容の本があってですね。それは自分で本屋さんで見つけて。

――霞を食べて生きる、あの仙人?

そうそうそう。それで「これいい!おれ、仙人になりたい」って思ったんですよ。高校生の時。

それがもう夢ですよ。僕ってあんまり夢ってあんまりないんだけど。唯一の夢ですね。

その本にはちゃんと修行みたいなことが書いてあって。仙人は実在するっていうようなことが書いてあって。「これいい」って思って。

瞑想と気功を混ぜたような修行の本なんだけど。それを読んで、やるんですよ。そうするとね、本に書いてあるとおりに全然ならないんですよ(笑)

で、だめだ~って三日坊主でやめるんだけど、またなんかね、「仙人の世界に~」ってまたやるの。で、また三日坊主。で、また読んでって、3年間終わった。(笑)

――精神世界の下地は、高校生の時からあったんですね、それでそのお昼休みに、八重洲ブックセンターで・・・

その時、たまたま手に取たのが「たまたま」(笑)「たま出版」という出版社の社長さんの本だったのね、(笑)

それでそれ読んだ時に、突然「ここに行こう」って。

その社長さんの半自伝みたいな本だったんだけど、たま出版っていう出版社は、本も何冊か持ってたから知ってたんだけど。

たまたま、開いたページが、社長さんがたま出版を作った時の経緯というか、志みたいなくだりが書いてあったところを読んだ時に「あ、ここに行こう」って思ったんです。

――それですぐ辞表を出したんですか?

辞表を出す前に、その社長さんに手紙を、熱い手紙を書いて送った

「編集とかはできませんが、精神世界の活動の一端に加わりたいです」みたいな熱い。

そういう精神世界のことは好きだったんだけど、仕事にしようなんて全く考えもしないで、本は読んでたんですけどね。

それで手紙の最後に「何月何日の何時ごろお電話しますので、よろしくお願いします」って書いて。当時携帯もないから、昼休みの時間を書いておいて。で、会社から外へ出て、公衆電話から電話したの。

そしたら、「じゃ、会いましょう」っていうことになって。会いに行ったら、「来なさい」ってことになって。すぐ決まったの。で、会社には辞めたいですって。

――でもそれはご自身にとっては行きたいと思った転職だけど、ご両親とかご家族の反対はなかった?

そうですね。反対されましたね。特におふくろからは反対されましたね。おふくろも学校の先生でしたから。

その頃は大企業がつぶれるなんて考えられなかった時代ですから。いい会社にも入れたんだから一生安泰でねって、考えたと思うんですよ。そこから、よくわかんない業界で、出版社で。

「たま出版」って、僕も行ってびっくりしたんですけど、10人ちょっとの会社で。こんなに小さい会社だったんだって思ったんですよね。

僕のいた会社は5000人くらいた会社だったから。一部上場のね。

――その「たま出版」ではどんな仕事を?

一年半くらいはなんでもやって。営業みたいなこと、営業のサポートみたいことも総務的な、経理的な、経理の専門はできないけど、なんでもやりました。

――そこでは大好きな精神世界の先生とか、仙人の教えをもった人とかにお知り合いになれたんじゃないですか?

そうですね。それで1年半くらいたった時に講演会とかセミナーを開催する部署があって、それは小さい出版社のさらに小さい子会社になってたんだけど。そこに移ってくれっていうことになって。同じ建物の中ですけど。

それがちょっと長くなりましたが、講演会の主催の仕事に携わるようになったきっかけですね。

――そこで出会った先生方のなかで、この人は?とかこの教えはすごいっていうか、仙人に近かったという先生はいらっしゃいましたか?

仙人に近かったっていうこととは違うかもしれないですけど、やっぱりね。すごいって思った人は、素晴らしい人たちはいっぱいお会いできたんだけど、なかでもっていうことでいうと。

一人は小林正観さん

――小林正観さんの唯一の師範代ということですけど、小林正観さんって、どういう方だったんですか?

正観さんはね、もう11年前にお亡くなりになったんですけど。生きている間はね、ものの見方、考え方っていうのを本とか講演を通して伝えている方だったんです。

で、どんなもの見方、考え方かっていうと、ほんとうにいろんなお話がどんどん出てくる方で、話は面白いし。なんていうのかな、楽にもなるし、笑いもするし、でも「ほ~!」って惹きつけられるような話もされる方だったので大人気だたんですよね。

――私、プロ・アクティブに入って間もないころ、社内のセミナーで「コップの水が半分入っている」というお話を聞いたことがあります。そのお話の先生ですか?

そうですね・・・どういったらいいかな。

そのものの見方、考え方っていうのは、僕なりにって言うと。

どういう見方をしたら、考え方をしたら、楽になるか、楽しく生きられるか、幸せになれるかっていう見方、考え方を伝えていらしゃったなと思うんです。

ものの見方次第で幸せにもなるし、不幸にもなるんですよ。

ちょっと言葉を変えると、「幸も不幸も存在しない。そう思う心があるだけ。そう思う私の心があるだけ」っていうね。

起こる出来事、状況自体には幸せな出来事とか不幸な状況っていうのはないんですと。

僕らは例えば、お金が儲かったら幸せ、お金がないと不幸せ。おいしいものをたくさん食べられたら幸せ、お腹が減ってもう食べるものがないと不幸せっていう、どういう条件・状況で幸せ、不幸せが決まるって思ってるじゃない?そうじゃないんですよ。

幸せって自分が感じるものなので、自分の見方、その幸せって見える見方ができるかどうかていう一点にかかっているんですよ。という。

だからさっき、ほーりーが言ってくれたお水のたとえも。コップに水が半分入っているっていう状況をね、ある人はもう半分しかない。もう半分誰かがもう飲んじゃったってね。

それで不満を言うこともできますと。入っている水の方を見ずに、「みずにね」「みずに」(笑)

――飲まれた方を?え?? あ。水に?見ず にね(笑)

ごめんなさい。ちょっと頭がそれについていってなかった。ここからはスイッチいれます。

それで、なくなった方をみたら不満になるけども、まだ半分水が残っているという風に見ることもできて。「あぁ、水が半分まだ残っていてよかった」って。これは水を見るほうです。

そういう見方になるし。さらには「誰かが水を半分残しておいてくれたんだ、ありがとう~」って感謝もできます

だけど、ある事実はコップの中に半分入っている」という事実です。それを「もう」「半分しか」とみるのか、あるいは「誰かが残してくれた、ありがとう」って見るのか。自分の見方とらえ方、そこですって。

――そういうことを教えていらした小林正観先生の弟子、師範代ということは、正観さんとは密に交流されていたんですか?

そう、最初のきっかけは、正観さんの最初の本をあるショップで買って、「あぁおもしろい」って思って、それでご連絡をとって、それでお会いいただいたっていうのが最初だったんだけど。それが今から25年くらい前なんだけど。

その25年前から、正観さんに講演をしていただくようになって。

当時僕はその「たま出版」のイベント部門の子会社にいて。「たまメンタルビジネス研究所」っていう長い名前の。だから「たまメンタル」って言っていましたけど。そこでね、講演会を主催させてもらって、それで講演をしていただくようになったのが初めてで、それから3年くらいたった時に僕は「たまメンタル」を辞めることになってですね。

――あら、まあ!今度は独立?

まぁまぁ、ちょっと半分リストラのような形で、自分で独立したい、じゃなくて、やめるようなかたちになりまして。自分でもまったく考えてもいなかったんですけど。

それでね。やめることになったときに正観さんに、ご報告というかね、やめることになりましたと。半年先までたまでは講演会が決まってたんだけど、できなくなりましたっていうお詫びとご報告をしたら、「それじゃ自分で会社作ったらいいじゃないですか」って。

考えてもみなかったことを言っていただいて。

それだけじゃなくて、いろんな応援をしていただいて、それでできたのが「ぷれし~ど」という会社。

――じゃぁ、「ぷれし~ど」という会社の生みの親は半分、正観さん?

半分どころか、ほぼ全部。僕はなにもやっていませんから。

正観さんはじめ、正観さんからちょっと声をかけてくださったみなさんの応援のおかげでできた会社なんです。

それで「ぷれし~ど」ができてからは、ほぼ毎月正観さんの講演を東京で主催をさせてもらってきて。月に2.3回させてもらった時もあったので、トータルでいうと、ちゃんと数えてないけど、200回近く正観さんの講演会を主催していますね。

――じゃ、本当に近くで正観さんの教えを聞いてらした。

近くかどうかはわからないけど。というのは、正観さんの追っかけをする正観さんの教え子さんもいらして。正観さんは年間多いときは300日以上講演を、ほぼ毎日全国を回りながら、旅しながらいろんな主催者さんに呼ばれて、講演をされていたんですね。

だから追っかけ状態でずっとついて熱心に聞いて回るかたもいらしたので。僕はついて回ることはなく、主催させてもらうので、いつも来ていただいたほうなんです。

――そんな中で唯一の師範代ということは、どこを見込まれたと思いますか?

そうですね。なにでしょうね。

正観さんは2011年にお亡くなりになったんだけど、その亡くなる半年前に僕の「ぷれしーど」で主催した正観さんの講演会の後、終わった後、正観さんとスタッフだけの食事会があって、その時、いきなり「高島さんも話しなさい」っていきなり言われて。

「私の話をたくさん聞いて、主催もしてるから、話が、講演ができると思いますよ。正観塾の師範代と名乗っていいから、講演なさい」って言っていただいたんです。

その時のエピソードもよく講演でもお話するんだけど。

師範代っていうことは正観さんの代わりっていう意味だから、正観さんの代わりなんて、できるわけがない。それくらいすごい方だったので。

正観さんの代わりなんて当然できるわけできるわけがないって気持ちが当然上がってくるんだけど。

そういうすごい話が来た時に「私なんかできません」「ご遠慮します」とか「辞退します」っていうのを世間的には「謙虚」っていうじゃないですか。

だけど、正観さんの見方ではそれを「傲慢」と見ます。

それを言ってくださったこと、頼まれたこと、よかれと思って言ってくださったことを自分の自我で「できません、やりたくない」って断るのは傲慢というというのをいっぱい聞いてきていたので、「もう無理です」ってでかったんだけど、「ここでできませんっていうのは傲慢っていうんですよね?」って正観さんにきいたら、「そのとおりです」って。

――それでお受けになられて、今があると。

そうですね。それが講演とかさせてもらうようになった大きなきっかけ。それがまったく初めてではなかったんだけど、その前も少しちょろちょろお話をする機会はあったんだけど、まぁ、本格的には、そういう機会をいただいたっていう。

――そこから、講演者として「高島先生」・・・・って呼ばれるようになった?

さっき言うのを忘れたけど、・・・「りょうさん」でお願いします。

やっぱり下の名前で呼ばれると、うれしいなっていうのが僕はあるし。他の方のことも下の名前で呼ぶと、苗字で呼ぶよりは、苗字も大事なものなんだけど、下の名前で呼ぶとよりその方本人という感じもあるし、なんか近しい感じもするじゃない?

――じゃ、高島さんより亮さん?

そのほうがいいなって僕自身は思っていて。あとは、「りょうさん」って呼んでいただけると・・・あの、ダジャレを量産できる(笑)

だから決して高島さんって呼ばないでください。(笑)

――はい、りょうさんで。量産ですね!

講演でお話されているのは、小林正観さんから学ばれたことのほか、亮さんならではのお話も?

そうですね。「正観さんはこうおっしゃっていました、本でもこんな風に書かれています」っていうお話もするんだけど、それを僕なりにはこんな風に解釈していますとか。

なんていうのかな、実践したり、プラスにさせていただいていますというふうにも。

また「正観さんはこうおっしゃっていたけど、僕はこう思うんですけどね」っていう話もするし。

でも基本的にはいつも「内容はないよう~」って。(笑)

「大事なのは内容じゃないよう~」ってそれらしいことを言ってるんですけど(笑)

――私も最初のころは、亮さんんって、この人どういう人だろう?ってよくわからなかったんですけど、最近、噛めば噛むほどするめチックに味がでてくるんですよね~。

するめチックじゃなくんてね。スルメじゃないんだよ。

(机の下でごそごそし始める亮さん)

スルメじゃなくて、ね。

――イカ?

イカじゃないんですよ。

ちょっとね。噛めば噛むほどっていうのとちょっと違うんですけどね。

するめじゃなくてんて・・・こういうのいいですかね?

(出た~♪大変身)

イカもおいしいんだけど。こっちはカニ。

もう、カニ様、神様って(笑)

こんなようなことをやっています。

――正観さんもこんなことやってたんですか?

正観さんもね、交流会とかやると、正観さんも楽しいこと、みんなで面白がることが大好きだったので、演芸会とかこうゆう出し物はね、仲間が集まる機会があるとやってて、正観さん自身もこういう仮装、変装、コスプレ系はやってたんです。

そこは僕も受け継いでる。

僕はね、ダジャレと仮装、変装は受け継いでる。

カニ様はね、こうやって大事に飲むの、すべっちゃいけないから。

「月のしずく」は大事に飲むの、一口ずつ。

(月のしずくを飲むかにさま。ハサミではさんで・・・)

おいしいガニ~。(笑)

――暑くないですか?だいじょうぶですか?

仕事ですから、(笑)だいじょぶです。

――・・・そして、私が亮さんのコンテンツ?出し物?で好きなのは、「いいんだよう~」ダンス。いろいろなところで奉納もされている。あれはオリジナルですか?講演では必ず披露されている?

あれはオリジナルですね。

必ずでもないですけど。よく忘れることもあるんだけど。

正観さんにね、本当にたくさんのことを教わったんでね。本当に僕のものの見方、考え方の大きなベースになっているのは間違いないんですけど。「正観さんの話を見たり聞いたり、本を読んですごく楽になった、楽しく生きられるようになりました」っていう人が本当にたくさんいるんだけど。

そのつらい苦しいっていう状況から抜け出せない人は、なかなか心が楽じゃない、緩んでないことが多い。

心も張って、神経も張ると、心も体も痛くなりますよね。

だから神経が張っている人は、ちょっと神経に触れただけで痛くなって、ピーンと響いちゃう。

だからそこを緩めると、痛みも和らぐし楽になる。体も心もそうなんだけど。

そのためには、どうしたらそうなるかっていうと、見方を緩めると、カラダも緩めると、楽になりますよってことなんですよね。

「緩む」って、「許す」の語源。語源がつながっている。

「緩む」っていうのは「許す」ことなんですよ。

いろんなことが許せない人って苦しいじゃないですか。別な言葉でいうと「受け入れられない」ってこと。相手のことが受け入れられない。

この状況を、この自分に起きた出来事を受け入れられない時って、文句を言ったり、不満を言ったり、すごい苦しくなったりするじゃないですか。

あと自分自身を受け入れられない時も苦しくなる。

だから許せない。

逆に受け入れることができると、楽になるし、許せるようになる。それは緩むから。

だから見方を、自分の見方の幅がこれくらいだとすると、(この狭い)間に「月のしずく」のボトルが入ってきてくれたら、許せる、受け入れられるんだけど、ここに入ってない時は、許せない、受け入れられない。

文句を言ったり、攻撃したり、ぶつかったりする。で、多くの場合、自分のこの範囲に入っていない人とか出来事を、自分のここのこの範囲に持ってこさせようとする

それで大変な思いをする。ぶつかったりもするし、相手は相手で、そんないやじゃないですか。だからうまくいかない。

悩み苦しみが続いちゃうってことになるんだけど、それをやり続けていてもいいんだけど、もっと楽に受け入れられる方法がありますよ。

それは自分が広がることです。

自分の見方を広げて、緩めて。

で、許容範囲を広くすることができると、さっきまでは入ってなかったものが、自分が広がると、受け入れられるように、許せるようになりますよって。

(カニの手を広げている写真)

――ほぅ、わかりやすい。

これを広げるっていうのが緩めるということ

ものの見方って、だいたい苦しいときってすごい狭い見方。自分だけの見方。自分は正しくて相手は間違っているっていう。

そこにとらわれちゃうっていうのかな。すると、いろんなものが入れられなくて苦しくなっちゃうの。だからそれを緩めるっていうのは。。。そんな話をたくさん聞いてきたんだけど。

僕らはいろんな物事にね、これはいいとか、これは悪いとか。

――ジャッジしちゃう

これはすごく幸せとか、これは不幸なこと。これは素晴らしいこと、これは絶対許せないことって、ジャッジしちゃうでしょ。

そういったものの見方に応じたものを自分が感じとり、受け取ることになっちゃうんだけど。だから、見方を緩めるにはどんな見方をしたらいいかってことをたくさん正観さんに教えていただいたんですけどね。

それをアレンジしたのかもしれないけれど。

ある時、ね。僕の中にふってきたフレーズがあって。

それはさっき言ったように、いいとか悪いとか、正しいとか間違いとか、プラスだとかマイナスだとか、そういう僕らは色付けをしたり意味づけをして日々いるわけなんだけど。

これは思い通りになったからプラス、これは思い通りにいかないマイナスっていうのは、ずっとプラスがプラスかっていうと、そうでもない。プラスだと思っていたら、それがいつの間にかおかしな方向につながることもあれば、自分にとっては大変な出来事だったていうマイナスに見えることがその後のありがたいこと、幸せだな、よかったなと思えることにつながることも。

僕のさっき言った、半分リストラみたいな感じでやめることになったというのは、普通はマイナスなことだけど、その後「ぷれしーど」ができて、もう20年以上になるんだけど、もうすごくその間にたくさんのいい出会いとかご縁とか、楽しい思いもさせてもらいながら、で、今日のこのほーりーともご縁をいただいて、今日のこの時間があるとうところまでつなげてみれば、あのリストラがあったから、今日の幸せ、プラスがあるでしょ。

っていうふうにつながっているので、そう考えるとマイナスだ、プラスだってあんまりこだわりすぎないほうがいいんじゃにですかってことで。

それを一言でいうと、「プラスに見えても、マイナスに見えても、陰でも陽でもいいんだよう」

――陰でも陽でもいいんだよう♪

ま、ダジャレですけどね。

そういうフレーズがね。ある時降ってきたの。

それはベストセラー作家の大人気のひすいこたろさんね。ひすいさんと沖縄にFさんっていう不思議ないろんなことが分かる方がいらっしゃって、そのFさんと僕の三人で、三人のトーク会をやってたんです。

その時にひすいさんとFさんが陰と陽のいい話をしてくれててね。僕はいつもダジャレ担当だから、それを準備する係なんですけど。その話を聞いてた時に、さっき言ったフレーズが突然ふってきたんですね。「陰でも陽でもいいんだよう」

それだけじゃなくて歌とダンスも降ってきて。

いちおうやってみますかね。

これをね、すぐには投げ込めず30分くらいたってからやったんだけど、それ以来やるようになって。いろんな講演会とかセミナーでやってたんだけど、ある時、僕の友人でTRFというグループのバックダンサーをしていた友人がいて、ワッカンっていう。そのワッカンにね。今日のこのダンスをちょっとアレンジしてくれないって頼んでね、そしたら「わかりました。TRFバージョンでやりますって。TRFバージョンが生まれました。

これをあわせてやるとね、1番が基本バージョン、2番がTRFバージョン。メリハリが大事でね。

“メリ”と“ハリ”で陰と陽になっているんです。

――(拍手)こんなフルコーラスで!贅沢な、贅沢なインタビューになってしまって。ここだけ(YouTube)再生されちゃうかも(笑)

ありがとうございました!

これね、いろんなご感想をいただいていて、講演会でやる時は、僕は今みたいに見本は見せるんだけど、みなさんに、一緒にやっていただくんですね。そうするとね、みなさん。最初は戸惑いながらもやっていただけるんですけどね。

いろんなお声をいただいて。一番多いのが「あの歌が頭から離れせません」

まぁ、お経みたいな感じなんですけど。

あまりハイテンションで、アップテンポでもなくて、ゆるーい感じで。

あれがね、「リフレインしています」っていうお声とか。あとね、「気づいたら揺れてました」っていうのと、あとはね、「揺れてたら、前に考え事とか悩んでたことがあったんだけど、なんだか悩みがなくなりました」とか。「揺れながら悩めないってことがわかりました」とか。

だからね。体が揺れると緩むんです、で、体が緩むから心も緩む

――そうすると、この「許す」幅も広がって。

「陰でも陽でもいいんだよ」だから、陽がプラスがいいんじゃなくて、マイナスもいいんだよどっちもいいんだよ。マイナスからプラスのここまで、どこにいてもいいんだよって話なんで。

みんなポジティブになりましょうっていうのともちょっと違う

――どっちでもいい。どっちもいい?

人間、いろいろ揺れるじゃないですか。だからその揺れるのも、いいんだよ。

揺れちゃいけないと思っていると、揺れた時にマイナスを自分につけちゃうんです。

――思いがけず、すごいセミナーになってしまって、ありがとうございます。どんな人物なのか、深掘りしたかったんですが、掘ってみたらカニでした(笑)

ほじくったね(笑)カニはほじくる。

――おいしかったです♪ (笑)

もうひとつ、私の好きなりょうさんの講座に「名前のアナグラム講座」があるんです。今度プロ・アクティブでもやってもらいますね。

アナグラムっていうのは言葉遊びで。言葉の文字の順番を入れ替えると別の言葉になるよっていう言葉遊び。

それを名前でやると自分の名前の中に別の違う言葉が隠されていることがあるよっていうことで、それをね、「名前のアナグラム」って言って、これもね、正観さんから教わったものなんだけど。

――たかしまりょうという名前を組み替えると・・・

「かたりましょう」。

でも一歩間違えると、「たかりましょう」 になるの(笑)

――陰でも陽でもいいですね(笑)

ところで、これ、「私たちにはこれがある!」そう『月のしずく』のこと話さなくちゃ。

たま時代から「ぷれし~ど」になっても『月のしずく』の販売店としてうすくながくお付き合いいただいて。この10年くらいはひんぱんに「ゆの里」にも行かせてもらって。

この『月のしずく』はね、ほんと、お水をとおして、お水を飲んだり、お風呂に入らせていたくことで感じ取るのは、ね。

体にプラスになるというか、健やかに生きていける、楽しく生きていける本当に大きく味方になってくれる大事なお水だと思うんだけど。

ぼくにとっては、重岡社長のお水のお話を、この10年の間に本当にお聞きするようになって、ぜひ重岡社長のお話を聞いてほしいのでっていうことで、そういう機会ももたせてもらってるんだけど。

そのお話をやっぱり聞くにつれて、お水そのもののすごさがスピリチュアルな面からも科学の面からも、ほんとうにどんどんどんどん読み解かれてきている。

そのお話自体がすごいことをたくさん教えてくれているなって思うんですが、さらにそのお話が、なんていうのかな、自分の生き方、言ってみれば、重岡社長もよくおっしゃるし。ツェンコヴァ先生の言葉としてもおっしゃるけれど「水のように生きる」

それをね、すごく感じさせてくれる、あるいはいろんなことを教えていただける、ヒントをいただける。そう言う存在であり、場であるていうことでね、とても大事なお水であり場であり、ご縁をいただいているって思ってるんですね。

――まったく私もそう思います。

――そんな、カニさん(笑)、りょうさんの人生でゆるぎなく大切にしてきたこと「みずのたま」は?

なんでしょうね。「あなたのみずのたまはなんでしょう?」って一番大事にしてきた、真ん中にあるって?

一番大切にしてきたね。真ん中にあるのは、「あなたのみずのたま」の真ん中にあるのは「み」ですね(笑)

後で書いてみてください。わかりますから。

「あ・な・た・の・み・ず・の・た・ま」全部で9文字なんですけど。

真ん中にあるのは「み」(笑)

そんな風に言おうと思ってきたんだけど。

でも「み」ていうのは「水」の「み」なんですよね。あと「実」がなるとか、すごく豊かさにつながるようなもの、中身の詰まったものでもあり、生るものでもあり、それが「み」っていうものだと思うので。水のように流れて広がる、包むものも、ほんとにまさに玉となってなるのが「実」でしょ。

だから、その実っていうのは、「あなたのみずのたまの真ん中は?」っていうのは。ほーりー、すごい質問だなって。

「み」って、すごく中心の、その水のたまインタビューなんだなと。「み」ごとかどうかはわかんないですけど(笑)

僕自身でいうと、大切にしてきたのは、今もしてるし、これからもしていきたいなというのは「自由に、楽しく」ってことですかね。

どんな風に生きようが、どんな人生になろうが、それはもう自由だと思うんです。

こう生きるのが正しいとか、素晴らしいとか、これはだめとかつまんないとか。そんなことは決まってなくて

どうやって生きるのも自由だと思うんだけど、その上で僕自身は楽しむっていうのを大事にしてきたつもりだし、大事にしていきたいなって思いますね。

――カニ様、今日も楽しませていただきました♪

ありがとうございました!!

「感謝」の声を聴く
「ご縁」のおかえし
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「おかげさま」の祈り
「大切」をちゃんと大切に。
自分をだいじに。
天道生え(てんとばえ)