2022.1.4
死ぬ時が人生の最高峰(前編)

 相田 雅彦

TAKEFU開発者

1956年10月27日 長崎県大村市生まれ
(株)ナファ生活研究所 代表取締役、一般社団法人空飛ぶ竹ガーゼ社代表理事。

大学卒業後、フリーの美術記者として作家の取材をしながら「ものづくり」の厳しさに感動する。
そして30歳を契機に、嘘の介在することのできない「ものづくり」の世界で生きることを決意し30有余年。
1999年より開発に入ったTAKEFU。
2018年1月、目標としてきたTAKEFU医療用ガーゼとして国に登録され、ようやくスタートラインに近づいて来たと語る。

http://www.nafa-take.com/

みずのたま第6回 TAKEFU開発者 相田雅彦さん 前編

――みずのたまインタビュー。今日はTAKEFUの開発者、ナファ生活研究所の相田社長に来ていただきました。相田さんおはようございます。

今日はすごく気持ちいいところでインタビューさせていただいていますが、この公園は相田さんにとって、どんな場所ですか?

そうですね。この公園は毎朝、日の出からしばらくの間ですね、体操したり、瞑想したり、まあ心と体を整える場所って言っていいのかな。そんな場所です。

あとはね、歌、歌ったり。鳥と話ししたり。

ハーモニカ吹いたりとかね、しますよ。

今日一番なんかこの紅葉が綺麗なね、タイミングで来ましたね。うん。

・・・僕が大好きな武満徹さんの曲を。

武満さんの曲でやっぱり、僕と一番共通しているところは、音の透明感というか。風とか雲とか光とか。

そういうのが、すべての音の中に含まれているというかね。

それを音にしたのが武満さんの音楽じゃないかなって。

風が吹いてきてくれましたね。 あ、気持ちいいね。

――どんな子供時代だったのでしょう?

えっと、長崎の大村市っていうところなんですけどね。

海まで3分、山まで3分というようなね、非常に身近な自然に恵まれた場所ですかね。

子供の頃は夏は海水パンツに T シャツ、麦わら帽子に、網を持って裏山に入っていき、午前中、昆虫採集をし、お昼戻ってご飯食べてお昼寝して、午後からは T シャツ脱いで、海にドボンというやつですね。

まぁそんな感じで、子供時代を過ごしました。

ちょっと変わった子でしたね。

中学校の頃は、私の愛読書は『ロダンの言葉抄』でしたね。

まあ普通のね、中学生で放課後になるとクラブ活動、バスケットやったりしてたんですけど、休み時間はね、いつもロダンの言葉をずっと読んでましたね。

「美は何か」とかね。そんなのやってました。

まあそれから高校になると、相変わらずバスケットはやってるんですけど。

高校時代の休み時間は、武者小路実篤とか、愛とは何かとかね、あの三木清さんの哲学の本とか、そんなのを読んでましたね。

だから、ちょっとは変わってました。

10代の頃からやっぱり何のため生まれてきたのかとか、どう生きていくのかとかね。

そんな、答えの出ない、「生とは何か」とは「死とは何か」とかね、そんなことずっと考えてる10代の後半から20代の前半だったかな。

それでまあ大学時代ほとんど学校は行かなかったけど、ロシア文学をやってたので、まあ暗い暗い、青春時代を過ごしたというね。そんな感じです。

――故郷を離れてからは?

そうですね。大学に入学をした時に、なんかね、みんな浮かれてるじゃないですか。サークル活動だコンパだってね。どうもね、私はそういうのに馴染めなくて、もうここの場に居たくないって思ったんですよね。

だからもっとこう、労働の中から生きる意味を見出したいと思って。

それで片道の電車賃と数日宿泊できるぐらいのお金をアルバイトで、神田のね、本屋さんでアルバイトして。まあお客さんの来ないような本屋さん。

そしたらずっと本読めるからね(笑)。

そこでずっとアルバイトして、何万円か、5、6万かな、稼いで、夜行で北海道に旅立って。

まあどうやって仕事を探せばいいか分かんないんで、とりあえず北海道庁に行こうって。道庁に行ってね。

靴を、まあ下駄を投げて、どっち向くかで、自分の行く方向を決めるんだけれども。

まあ、さすがに下駄を履いてないんでね、靴をね。道庁の4階まで上がって、右が畜産部、左が水産部だったんだね。

そしたら畜産部の方に靴が向いたんで、そっち行って、ドアがーって開けて。

役所ですから皆さん座ってるわけです。「私は東京から来た何某です」と。で、「北海道で仕事をしながら、あのー、その生きる意味をね、見い出しに来ました」っていうようなことを大声で言うわけです。

面倒くさいわけ。

何人もの人にね、話するの面倒くさいから、もうみんなに聞こえるように大きな声で言います。

そしたら奥から、窓際からこう偉そうな人が来てくれて、「なになに」みたいな話でね・・・。

そんなんで、根室の方の牧場をね。根室というか別海町、中標津とかね。牧場を紹介してくれて。

お父さんが骨折で動けないと。

牛が100頭ぐらい居て、その世話をしなきゃいけないって。

毎日毎日乳が出るわけじゃないですか、そのお世話。100頭の牛の糞の処理をしたりとかね。

そんな日課ですけどね。

あのね、100頭居て、全部皆さんにこう、皆さんじゃない、人じゃねっていうの(笑)

えっと、うんちのふんをまずきれーいにして、それで餌をやってあげるわけですね。

ところが、一頭目からこう、順にあげるわけ。

もう向こう、後の方の子はね、早くくれってうるさいわけですよ。

だからね、どうしようかなと思って。だから歌を歌ったのね。

そしたらね、実に静かにね。で、歌をやめるとまた鳴き始める。

で、いろんな歌を歌ってみたけどやっぱりね、童謡が一番良くてね。

特に『赤とんぼと』がね。

――『赤とんぼ』

「ゆうやーけ、こやけーのあかとーんーぼー」ってね。こんな感じでね。

100頭終わるまでずーっと歌わなきゃいけない。とても大変(笑)。

でもハーモニカなんかもね、私、赤とんぼの曲、一番吹いてるかな。

やっぱり一人で長崎からね、東京出てきて、さみしいじゃない。

だから夕暮れ、下宿のね、物干し台のところに行って、西の空をこう見ながら、「カー」ってカラスが空を渡っていくわけじゃないですか。

そんな中で、ハーモニカを吹いてると、やっぱりいろんな、青森からとか新潟からとかいろんなところから来てるんだよね。

みんなやっぱりそれぞれさびしい。

だから、私が吹いてるとなんか自然に集まってきて、横に座ってその赤とんぼの曲を聞いてくれるんですけどね。

――そんな大学時代にご自身が変わる出来事があったとか?

そう、もうほんとに、夏も冬も雨戸閉めて。

どっぷりドストエフスキーに浸かってた時代にね、やっぱりどんどんどんどん、まあ哲学的な命題と言うか、宗教的な命題と言うか、生きること死ぬこと。そして、生きることと死ぬことは表と裏の関係だとかね。

死があるから今の生きている自分は美しいんだ、価値があるんだって。

これが永遠の命があるとね、別に今やんなくても、ね、いつやってもいいじゃない。

でも、今のこの瞬間というのは、自分の一生の中で二度と戻ってこない大切な時間なんだっていう風なことをいつも感じているとね。

時間であるとか、こうやって出会った人であるとか、もう大切にできると言うかね。

いつもいつも、なんというかね。

別に肩肘張ってるわけじゃないけど、真剣に大切に生きていけるのかなって思うわけですよね。

で、それは23歳の頃、自分の頭で考えたことが、いつも正しいわけではないと。

だから、間違った判断をしてきたのが僕のこの胸の中でいっぱいになってしまって、その、自分を崩壊させてしまう。精神的にね。

自己崩壊を経験して、その23歳の時にもう判断をしない、いいとか悪いとかを判断しない、自分を全開放する、っていう風に決めたんです。

自分に起こることはすべて受け入れようって。

受け入れて、自分は空っぽの状態になって、受け入れると、風がこう吹いてきます。

で、空っぽであれば必要なものは自分の中にとどまり、不必要なものは、すっとね、通り抜けていく。

必要なものだけ、残っていけばいいんじゃないでしょうかっていうような、そんな感じ。

それで、そっから回復していく時にね、井の頭公園の側に住んでたんですけども、新聞の折り込みに、絵画教室の、油絵教室のチラシが入ってて。

あー、僕は中学校の頃、絵を描いてたなと思って。

それで一週間に1回通い始めたんですよ。そしたらね、どんどんね、原色が出てくるの。

今日もきれいなんですけども、赤や緑や黄色やね、そんな色がどんどん出てくるわけ。真っ青な空の色とかね。

で、それを見て、自分の絵から自分の本質を気付かされたって感じ。

子供の頃、山や海でね、遊んでたでしょ。あの時の色がそのまんま絵に出るんですよ。

だから自分の本質っていうのは、非常にそういう、「光に向かう」、そういう性質を持ってんだなって。

決してこう闇に沈んでいく、そういう性質ではないな、っていうのが、気付いてね。

あのー、ロシア文学やっている時は、自分の世界は黒と灰色の世界だと思ってたんだけど。全然逆でした(笑)。

それからは、すごく光を、光に向かって歩いていってる感じですね。

その時点から今の自分まで、大分時は過ぎましたけど、振り返ってみると、ずーっと一歩道であるっていうのがよく分かる。

――大学を出て、一本道の途中で、最初になさったお仕事というのは?

最初はね、えーと、まあ、卒業の年に、そろそろ就職しなきゃね、って思うじゃない。

だから就職活動しようとして、で、どんな会社で働きたいかなーとかって、いくつか、「あ、この会社だったら行ってやってもいいか」みたいなね(笑)。

すっげえ生意気だよね(笑)。

だけど、みんなねえ、就職試験終わってるの。(笑)

だいたい秋に終わってるんだね。

そんなことも知らない。で、行くとこないわけ。だから、もう、独立するしかない。

だから、最初から、美術、フリーの美術記者として独立をして。いくつかの雑誌と契約して。

――美術記者時代にはどんな方を取材されたのですか?

そうですね。大勢の方、取材しました。実業家で絵を描いている人、意外と多いんですよね。そういう方であるとか、日展の偉い先生であるとか。

まあ僕の好きな人を、「この先生どうですかね」って、編集の人とね。「あー、いいんじゃないですか」みたいな感じで取材に行ったりしてね。

でも、そうしている中で、ある彫刻家の取材をした時にですね。

何メートルもあるような巨木で、仏像をね、彫っておられるんですよね。

1時間半ぐらい僕は下でずっと先生が作業してる姿を眺めていたんですけれども。

なんかな、美しいなって。

こう50年もこう、のみを持ち続けた手ってね、私の2本分くらいあるんですよ。

その、「君はね、わしの何を書きたいんだ」って言われてね、

すごいびびるわけ。

70代ぐらいの先生でね、こっち20代の若造で、面と向かってね、「君はわしの何を書きたいんだ」って言われると、もう顔見れないんだよね。(笑)

緊張して。

それで、私、目線を下におろしてると、先生が膝に置いた手がね、ごつごつしてて、まるで僕が中学校の頃、心酔したロダンの手のようなのよ。

だからそれが美しくて、うわっーすごい、「私は先生のその美しい手の話を書きたい」っていう風に言ったの。

そしたら「おー、面白いこと言うな」みたいなね。気に入ってくれて。

で、いろいろ話し始めてくれて。これがまた長いんだ、70年も生きてくると(笑)。延々子供の頃からの話になってね。

で、メモとりながら、「あ、私はこの原稿で文章を書く仕事は終わりにしよう」って決めた。

ものづくりの世界に入っていこうっていう風に決めたんです。

それはね、ものは嘘つけない。で、嘘のない世界を生きていきたい。この先ね。

30歳の時にそれを決めた。

ーー後編につづく

自分をだいじに。
私、いつも笑ってる
「仕事を通じて恩返し」
こどもが見せてくれる
「自分が幸せそのもの」
信じるということ
「ほんとうのことが、知りたい」
「感謝」の声を聴く