2022.1.6
死ぬ時が人生の最高峰(後編)

 相田 雅彦

1956年10月27日 長崎県大村市生まれ
(株)ナファ生活研究所 代表取締役、一般社団法人空飛ぶ竹ガーゼ社代表理事。

大学卒業後、フリーの美術記者として作家の取材をしながら「ものづくり」の厳しさに感動する。
そして30歳を契機に、嘘の介在することのできない「ものづくり」の世界で生きることを決意し30有余年。
1999年より開発に入ったTAKEFU。
2018年1月、目標としてきたTAKEFU医療用ガーゼとして国に登録され、ようやくスタートラインに近づいて来たと語る。

ナファ生活研究所

みずのたま第6回インタビュー 相田雅彦さん chapter #2

――ちょっと変わったという子供時代を経て、美術記者へ。その後ものづくりの世界からいよいよTAKEFUの開発へと歩みを進めてこられた相田雅彦さん。前編ではハーモニカ演奏も聞かせていただきました。後編で引き続きお話を伺います。

それから35年。随分。ね、あっという間ですけど。

もう35年もやってますね。

30歳で、ものづくりの世界に。

嘘のない生き方をしたいってことで、ものづくりの世界に入りました

――最初に作られたものは何だったのですか?

最初はね、僕はガラスが好きだったので、ガラス職人と二人三脚でガラス製品を作りましたね。

ティーカップソーサーだとか、耐熱ガラスを使ってね。

飾り物はあまり好きじゃなくて、生活の中で使えるものを作りました

ガラスペンとか、コップとか、ポプリを入れる容器だとか、ティーポットだとか。

ちょっと、ゆとりの時間を持てるような、そんなものね。

ハーブティーを飲むのに、やっぱりガラスがいいよねって。

陶器じゃあ中が見えないじゃない。

ハーブティーの楽しみ方っていうのは、色。

まず柔らかい花びらから色が出てきて、次葉っぱ。で、茎。最後に茶色い色が出てきて。まず色を楽しんで、次に香りを楽しみ、味を楽しむっていうのがハーブティーの楽しみ方じゃない?みたいな感じでね。

やっぱ、それはガラスだよね。

――ガラスの次は何を?

ガラスの次はね。ガラスを二人三脚でやってた職人がね、50代だったんだけど、がんで亡くなっちゃったの。

で、あれよっていう間に亡くなってしまってね。その頃からかな、やっぱり僕の中に、健康じゃないと何もできないよねみたいな。そういう意識が目覚めたんだと思う。

だから、健康っていうのが大きなテーマになったんだと思うな。

がんというのも、やっぱり、2人に1人ね。今はもう、なぜか医学が進んでいるにも関わらず、がんの患者は減らないというね、まあ、そんなことがありますけれども。

――モノづくりのお話の中でも私にとってすごく印象的で、今の相田さんらしいなと思ったエピソードがあるんですけど。そう、グライダーの話をちょっと聞かせてください。

グライダーね。そうですね。

30代の後半かな。36、7くらいの時かな。

東京に荒川っていう川があるんですけど、その土手でね。小学生の男の子たちがグライダーを飛ばしてたんですね。

100円ぐらいで発砲スチロールのね、組み立て式のグライダーあるでしょ。

あれを飛ばしてて、夕暮れですね。

それを女の子がね、同じ同級生くらいかな。女の子がずーっと見てるんですね。

1時間くらい見てるの。

僕はその女の子をずっと1時間くらい見てる。

で、声を掛けたんですよ。「飛ばしたいんじゃない?」って。

で、「うんやりたい」って言うわけ。

「じゃあ何で仲間に入ってやんないの」って聞いたの。

そしたら、「戦闘機の形をしてるから、なんか男の子みたいに思われるのがいやで、だからできないんだ」みたいな話をしたのね。

あ、そうなんだっと思って、じゃあ戦闘機じゃない形のグライダーがあったら、この子もできるねーと思って。

じゃあ、その子のために作ろうかなって思ったんですよね。

で、最初、鳥。鳥をモチーフに作ろうかなと思ったんだけど、鳥じゃ飛んで当たり前。

それじゃ面白くないなと思って。

海に泳いでるマンタとか亀とかをモチーフにして、誰が作ってもおんなじようにきれいに飛ぶグライダーをね、作った。

それをね、彼女に届けたいと思ったんだけど、どうやったら届けられるか分からないんですよ。家も知らないしね、名前も知らないからね。

で、ハッと気が付いたらコンビニがね、あったのよ。セブンイレブン。

僕らの子供の頃、駄菓子屋でいろんなおもちゃとか駄菓子を買ってたね、それが今はコンビニなんだよね。

だから、セブンイレブンのあの店に置いたら、あの子の手に届けられるなって思ったの。

そう思ったらね、いてもたってもいられずに、気が付いたら東京タワーの横のセブンイレブンの本社に行って、その話をしてるわけ。

で、私が受付で、その話をしてたら、たまたまおもちゃのバイヤーさんが横を通ってね。「どうしましたか」みたいな話になって、商談をしてくれたの。

それで私が、「実は荒川でね、こういうことがあって、だからこの女の子のためにグライダーを作ってあげたいんだ」って。

「作ったんだけども、これをお店で販売してくれないかな」っていう話をしたら「面白いっ」て言ってね。「やりましょう」って言ってくれたんです。

それで、そのお店に、何個か作って置けばいいかなと思ったんだけど、「そういうわけにいかないじゃない」って。

「どういうことですか」って言ったら、北関東エリアっていうのに荒川は入ってて、そこにね、正確な数は忘れたけど、1000店舗とかそんな規模で、そこに全部入れなきゃいけないっていうわけ。

はー、みたいな(笑)。

で結局「35000機作ってください」っていう話になって。

でもしょうがないなと思って。「じゃあ作りますっ」て言って作ったらよく売れて、すぐに追加で15,000機ぐらい。5万機も納めて、よく売れてるわけ。

バイヤーさんにも「どんどん新しいデザインで、次々にやってください」って言われたんです。

で、その荒川のセブンイレブンにね、私行ったの。

売り場を見たら、減ってるわけ。

つまり売れてるんですよね。

私はあの子がね、買ってくれたなって思ったの。根拠ないんだけど、そんな気がしたの。

そしたらもう作る気がなくなって。で、バイヤーさんに連絡してね、「私、最近ちょっと、病気かもしれない」って、(笑)、「新しいデザインの発想ね、もう出てこないんですよー」って。「申し訳ないけど、少しお休みさせてもらえませんか」っていう話をしたら、「いやいやそれは大変ですね」っていう話になって、「とりあえず他の商品で埋めときますので、また、ね、体調戻られたらぜひよろしくお願いします」って言われてね。

で、電話をきって、それから連絡を取ってないですね。もう30年ぐらい連絡とってません(笑)。

――届けたいその女の子に届いたって思ったからもう、

そう。

――それで良し。

もう、それで良しなんですよね。

そうなんです。

それから、ずっとTAKEFUを始めてね。やっぱり思いは一緒ですね。「必要な人に届ける」っていうのがね。

――そして、いよいよTAKEFUを作ろうと思ったきっかけは?

「竹から繊維を作ろう」。

竹から、まるでこう宇宙からのね、暗号のように、頭にカタカナで浮かぶんですよ。

タ・ケ・カ・ラセ・ン・イ」とかってね。こうピピピピピピ。そういう感じ。

どういうタイミングって?突然きましたね。突然。

僕が3年間ぐらい、合成繊維とかコットンとかシルクとか、そういう機能繊維とかね、そういう勉強をしてなかったら、そのメッセージが来ても、ジャッジできなかったと思いますね。

「えー、あんな硬い竹からどうやって繊維を作るの?」っていう話で。

それは単に妄想に過ぎないことになって、結果、チャレンジするとこまでいかないですよね。

ところが、繊維の、木から作る繊維の勉強もしてたので、「あ、おんなじようにやれば出来るかもしれないないな」って思ったの。

うん。まあ、魔が差したようなもんですね(笑)。

おおきな魔が差しましたね。それが無ければ今はないんですからね。うん、面白いです。

具体的には、木から作る繊維の方法を、まず同じ方法で竹でやってみた。でも木と竹は別ですからおんなじようにはできないんで、そこから試行錯誤が始まるわけですよ。

で、本当にやったことを後悔しましたよ、途中では(笑)。

もう、お金もいくらでもいるし(笑)、時間もかかるし。

難しかった。繊維は出来ても、それを糸にするレベルのものが作れない。

なかなか作れないので、だから何回も何回も試作を繰り返さなきゃいけないのでね。そのたんびにお金はいるし、どうしたらいいんだ、みたいなね。

まあその頃会ってたらね、みんな「お金貸して」って言われましたよ(笑)。

【TAKEFU誕生】

――そして、試行錯誤の末、あの、キラキラと輝く柔らかく美しい繊維が出来た時のお気持ちは?

そうですね。最初の繊維が出来た時には、ちょうど光がね、今日のような光がぱっとこう射してきて、手のひらの上でね、キラキラと白く輝いて美しかったね。

で、その時に思ったのは、「こんなに美しいものはこの先、この世の中に存在していってもいいよね」って思った。

こんなに美しいもの、存在するべきだよね。これは、この繊維はずっと続くなーって。

そんなふうに思いましたね。それはもう直感。

――その美しい繊維を見て、最初に何を作ろうって思われたんですか?

たまたまシルクのボディタオルを作ったりしてたので、その工場にその糸を持ち込んで、ボディタオルの試作をしたんですね。そっから。

やはり何のため?誰のため?っていうのが常にテーマになりますから。

その時は、ナイロンのボディタオルで、体をゴシゴシこすり過ぎて、まあ、泡立ちも良くてね、シャリ感もあって気持ちいいから、みんなゴシゴシこするんだけど。

でも、まあある意味プラスチックなわけですよ。

硬いもので柔らかい肌をこすると、当然傷がつくわけ。で、そこの傷がついたところに雑菌がこう入り込んで、炎症を起こしてかゆくなる。

だからナイロンのボディタオルをね、少しでも減らそうと思って。

それでTAKEFUの糸をね、少し強めに撚って、少しシャリ感を出して。で、泡立ちを良くするために空気層をたくさん入れるような糸使いをして、工夫して。最初のボディタオルを作りましたね。

     ≪2004年ボディタオル(ノーマル)TAKEFU製品第一号≫

それは2001年のことなんですけども、春。4、5、6、7、8月、その辺りですね。で、シルクや綿のタオルと一緒にお風呂で使うわけなんですけども。その頃はね、お風呂に入ったら2時間近く出てこないんです。

もう、テスト。コットンで洗いシルクで洗いTAKEFUで洗いってね。

うん。まあ一番私が美しく磨き上げられてた時代ですね。(笑)

で、ある時ね、3ヶ月くらい経って、竹のタオルだけがカビてなかった。

うん、風呂場に置きっぱなしで。確か、4、5、6、7でね。梅雨が入ってるわけですよ。その梅雨の時期にカビないものは、日本のお風呂でね、カビないものは何もない。

そんな時に、このTAKEFUのタオルはね、まあなんと涼しげな顔をしてる。

まったく臭わない。

これは大変なものを作ったかもしれないなって、私その時思った。

普段はぼ~っとしてんだけど、そういう時はね、よく頭働くんだよね。

おにぎりをたけのこの皮で包んだり、ね。笹の葉っぱとか、お刺身の横に置かれてたりとかするでしょ。それは、その竹や笹のね、抗菌力を活かした先人の知恵なわけじゃない。

繊維にしてもその力が、竹そのものの力がね、残ってるんだって思って、なんか震えたね。

その時に、今までなかったものが新たに生み出されてきたわけでしょ。これは自分で作ったって思わなかったね。

誰かが私を通じてこれを創らせたと思った。じゃあその誰かは何のために、私にそれを創らせたのかっていうことを考えるんですよね。

それで、もうずーっと考えて考えて、深夜ね、12時から1時、2001年の10月2日から3日、その、日が変わるタイミングで、ある言葉が頭に浮かんでくるんですよ。

あ、医療用のガーゼだって。

抗菌剤を添加してない、そのガーゼに抗菌力があったら、これはいいよね。刺激にもならないし。

それは、「人が最も痛み苦しむその時に、そっと傷に寄り添い、ただ快癒を祈る一枚のガーゼ」って言う言葉ですね。

まあ、それから医療用のガーゼを目指して、ものづくりを始めることになるわけなんですけどね。

その日から、2001年の10月2日から3日。それから2018年の1月19日、医療用のガーゼに登録されるんですけれども。

その間ずーっとしつこくそのガーゼを求めて、様々なものづくりをしていくわけなんですけども。

TAKEFUの製品、もう300以上の300SKUあるんですけどね。私の中では全部、直接体にふれて、体を守るガーゼとして作ってきましたね。

だから、シャツや靴下やこのショールの形をしたガーゼなんですね。そういうものです。ファッションのアイテムとして作ってきているわけではないです

――開発当初は竹の繊維の繊細さ、優しさ故に、ユーザーからクレームになりそうなこともありましたよね?でも竹でなければできないことをおやりになる、っていうのがすごくはっきりしてたように思いますが

そうですね。その、耐久性を求めるが故に、TAKEFUのね、その良さを殺してしまうようなものづくりをしては意味がないという風に考えたので。

だからこう、手渡しをしながら販売していく、必要な人に手渡しをしていく

「これ、ちょっと弱いからね、洗う時、気をつけてね」とかね。ま、そんな風に言葉を添えながら言えるじゃないですか。販売できるじゃないですか。

だから営業をしないっていう営業のスタイルになったんですよね。

ずーっと、営業部がない会社っていうか。(笑)そんなんで20年、20数年ね、やってきたって感じですかね。

――TAKEFUのいく道、医療の道ともうひとつ、相田さんにとって大切な道がありましたね。いつもね、丹生都比売神社で「祓布」を求めてくるのですが、その「祓布」の話もちょっとしていただいていいですか。

私は医療用のガーゼをね、日本で作りたいなっていう風にずっと思ってて。

で、その工場でこの『祓布』を作りたいなっていう想いでいたんですけど。

2010年の秋にね、医療用のガーゼの産地の織物組合に連絡をしたところ、電話口から信じられない言葉が聞こえてくるわけです。

どういうことかって言うと、「今、日本で医療用のガーゼを作ってる工場は0件です」っていう。

「0件ってどういうことですか」って話なんですね。

厚労省の資料によると、40%日本製って書いてある。だけど、あれは外国で織ったやつを日本に持ってきて、エタノールとかに含浸させたりして、メイドインジャパンということになっているらしくて。

だから日本では織ってないって話を聞いて、びっくりした。

そんなことあってはいけないと思ったんですよ。

ね、何が起こるか、隣国との関係が悪くなる場合もあるわけじゃないですか。

そんな時にガーゼが入ってこなければね、体守れないですよ。

ケガをした時に、ガーゼを当てなければ菌が体の中に入ってくるわけね。それじゃあ、生きられないわけですね。

だから、ガーゼを作る工場はなんとしても復活させなければいけないっていうので、1軒復活させて、そこで、ガーゼを織り続けているわけですね。2011年1月からね。

で同時に、ご縁いただいた丹生都比売さんで、『祓布』の話をね、2010年の秋に宮司さんにしたところ。まあ、どんな話をしたかっていうと・・・。

≪ 世界遺産 丹生都比売神社(和歌山県)≫

日本人が一番心が清らかになる時、瞬間、っていうのは、お正月にお参りをしますね、神社やお寺でね。その時に「去年まではこうでしたけど今年から心改めて、真面目にやります。だからよろしくお願いします」ってこうね、願を立てるじゃないですか。

その時は本当にね、どんな人も心が綺麗になってるんですよ、間違いなく。

だけど、階段を下りたらコロッと忘れる。自分が願を立てたことすら忘れてしまうもんね。それじゃあ何も変わんないなと思って。

で、この『祓布』の下に、神社の名前が入って、金赤の文字でプリントされて、それをお風呂で使うものとして作ってある。

自分がお風呂に入る時って、一番リラックスするじゃない。

で、お風呂に掛けてると、その金赤の文字がぼんっと自分の目に入ってくる。で、それを見た瞬間に初詣の時の自分の清らかな心とまた出会うんですね。

≪祓布≫

「あ、あの時、こんな思いでね、お参りをしたにも関わらず、自分の日常は何だった?」

そんな反省の時間をね、日々持てるわけです。

そうすると、その人の意識が変わってきますね。その人が変われば、家族が変わり、その人がお勤めの会社の仲間たちの意識が変わりますね。

それが全国のね、いろんな神社で、もし採用になれば、日本全国でこう変わっていくわけですね。そしたら日本が変わるわけです。

日本が変われば、その清らかな心を持った日本人が世界中に、行くことによって、それぞれの国の人たちの心を変えてくとしたら。

世界がね、平和な世界にね、なっていくっていう、そういうイメージかな。

――今日のここの公園もそうですけれど、なるべく自然の中に身を置くことをされているようにお見受けしますけど、その辺は意識されているんですか。

うんと、心地いいから(笑)。それだけなんですけど。

やっぱり人は心地いいところを目指すのでね。常に。

だから私が自然の中に行くっていうのは、やはり都会の中で、こう知らず知らず疲れてる自分っていうのがいるわけですよね。

電磁波だったり、静電気だったりね。いろんなものに囲まれてるので、無意識に体にそれは、自分は意識してないけれども、ものすごく影響を受けてるわけです。

それをリセットするアースするのは自然の中に行かないとできないんですね。

体が求めるから自然にそうなってるかな。

――自然の中で感じ取られた色の美しさを、TAKEFU製品の中に表現されていますね?

そうですね、はい。全部自分がふれてきたもの、見たものを、色名にしてね、つけてますね。

あの癒布(ゆふ)の、野葡萄の色なんかもそうです。

ほんとに、ほんとに美しい信じられないような世界がその一粒の野葡萄の中にね、含まれているわけです。

その感動を言葉にして、色のイメージで、作るんですけどね。

――TAKEFUに触れているとほっとするのは、自然に触れている感じがあるのかもしれないですね。

そうですね。うん、そうかもしれない。、TAKEFUはとても柔らかいのでね。

奥の方に芯が、竹のね、真っ直ぐな強さっていうのは、奥の方にあるんですけども、表面は非常にこう柔らかくて寄り添う感じですね。

――まるで相田さんみたいですね。

いえいえ(笑)。

まだ、スタートラインに立ってないと思ってるんでね。

準備期間なんですよ、私の中では。

会社をナファ生活研究所を創業して、丸25年なんですけど、まだ準備期間。で、来年ぐらいからようやくね、スタートラインに立てるなっていう感じしてます。

――相田さんの歩みの中で、ゆるぎなく大切にしてきたものがあるとしたら、それは何でしょうか?

自分に正直でありたいっていうことなのかな。うん。嘘をつかないっていうのは、対、人に対してということではなくて、自分の良心に対して嘘をつかないということなのかな。

自分の良心を道しるべとして生きていくっていうことなのかな。

私今65歳なんですけども、この先ね、どこまで生きていくか分かりませんけれども。

たとえ、明日死のうが、十年後二十年後死のうが分からないですけどね。

常に山を登っていくという。一歩ずつ山を登っていく。

で、最後死ぬ瞬間が間違いなく一番高いところにいるわけです。

振り向いた時に一番綺麗な、広々とした一番美しい景色を眺められる瞬間なんですよね。

死ぬ時が人生のピーク。そんな感じですかね。

それを目指してこう一歩ずつ一歩ずつ登っていく。

必ず頂上に辿り着くんですけども、その後ろに雲に隠れた山がまたあるんです。だからそこを登っていく。

だから頂上には辿り着けないので、延々とね。

だからただ人生の終わりのその瞬間は、間違いなく自分の人生の中で一番高いところにいる。

そこから振り向いた時の、この景色のね、美しさを夢見ながら毎日過ごしていくって感じでしょうかね

――竹のような、TAKEFUのような、相田さんのお話を、秘密の宝物のような場所で伺えて有難かったです。今日はありがとうございました。

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