2023.7.21
イー環境を繋いでいく

伊藤 孝博

「株式会社イー・有機生活」代表取締役

1953年2月6日  山形県高畠町に農家の3男として生まれる。
「株式会社イー・有機生活」代表取締役

早稲田大学理工学部を卒業後、日本ユニバック(日本ユニシスの前身)に入社。その後、仲間7名でシステム開発を行う新会社を設立し、135名ほどの規模に達した後、日本IBMに移籍。
24年間のシステムエンジニア(SE)、プロジェクトマネージャー(PM)職を経て、2000年7月、全く異分野の「株式会社イー・有機生活」の代表取締役に就任。以来、23年が過ぎた。
社会人として47年が過ぎ、これからの人生、何が起こるか楽しみだ!

イー有機生活

――今日の「みずのたま」インタビューは、プロ・アクティブ(イマココ・ストア)でも人気、ロングセラー「人参ジュース」の「イー・有機生活」の伊藤社長にお話を伺います。では、自己紹介からお願いできますか?

私は「株式会社イー・有機生活」の伊藤孝博です。1953年の2月、山形県の高畠町というところで生まれました。今年70歳になります。

十代ほど続く農家の三男坊として生まれて、兄が農家を継ぐということは決まってたので、私は東京に出てきて会社勤めを始め、今に至ります。

――今、経営されている「イー・有機生活」はどのような会社か、あらためて教えていただけますか。


そうですね。「株式会社イー・有機生活」というのは、読んで字のごとく、有機栽培をやってる全国の農家が出資をして、農家が作った会社ということで、非常に珍しい会社なんですね。

――伊藤社長、おひとりで起業されたのではなくて、農家さんみんなが集まってできた会社の社長さんなんですね。


そうです。全国の農家が集まって、東京で勉強会をしてたんですね。有機栽培っていうのは非常に難しいもんですから、どんな技術が必要で、「こんなことやったら失敗したよ」とか、「こんなことやって成功したよ」っていうのを全国の農家仲間が集まって勉強して、これからの世の中で有機栽培の農産物をしっかりと作っていこうよと言う集まりの団体がありまして。

その勉強会をやってた時に、たまたま僕が呼ばれた。

当時は、インターネットで農家が農産物を直接販売するってことはできなかったんですよ。
作ったら、農協さんとか、生協さんとか、あと市場だとか。そういったところで、買ってくれる人が値段を決める

50円で作ったものでも「40円しか値段がつかないよ」って言ったら40円で売るしかないんですよ。50円で作ったんだったら、そこ5円の利益を足して55円で売りたいっていうのが、まあ普通の農家さんじゃないですか?それが今はできますけども。できなかった。

インターネットっていうのが1998年くらいですかね?楽天さんとかが出てきて、「これからはネットの時代だよ」みたいになった時に、うちの生産者の一人が「俺たち、会社を作ってインターネットで自分たちで販売できないか?」「やろうよ!」「インターネットでこれから世の中、変わるよ」って。

そんな風に盛りあがってた。

ところが農家の皆さん、インターネットってあまり知らないから。その代表をやってたうちの兄が「おお、孝博、お前来て教えてくれ」と言われて、それで行ったんですよ。

――伊藤社長がお兄様に呼ばれたということは、すでに、その頃伊藤さんがインターネット関連のお仕事をされていたから?


そうですね。本当に畑違いのところにいてね。

まだ、インターネットそのものが、そんなに広がってなかった。これからでしたんでね。

私はずっとコンピューターの世界を経験してまして。直前は日本IBMっていうところで、金融システムのプロジェクトをずっとやってましたね。

――山形から東京へ出てこられて、大会社のかなりの地位を捨てての転職。お兄さんに誘われたとはいえ、何か大きな理由があったのですか?


大きな理由ってところは・・・そうですね。まあ、農家の人のためになるんだったらいいのかなっていうのが一つあって。後は何て言うのかなぁ、自分も一度会社の代表というところで、辛い思いをするかもしれないけども、みんなのためになるんだったらやってみようかなって。

まあ、そこは踏ん切りが着いたところ。全国の農家のためになるのであればねって。

あとインターネットで、新しい時代になにか爪痕を残せればいいかな、なんていう。ちょっとそういう野心もありましたね、うん。


――それが何年前?


23年前ですね、うん。

■■ 創業当時 ■■

――創業当時、どんなスタートだったのですか?


まあ、インターネットですぐ事業がうまくいくと思ってたんですよ。ところがどっこい。まあ、当時は回線スピードが非常にプアっていうかね、遅くて。

動画なんか、例えば野菜の画像をこう画面に入れますよね。そうすると・・・、カク、カク、カクって(笑)

当時、こんな感じで(遅かった)でしょう、昔。そうだったでしょう?

だから画像とか動画なんてもうとんでもない。動かなくなっちゃいますからね。

そういう時代だったんで、これはインターネットは駄目だなって。

ISDNとか光ファイバーとかの話は出てましたんで、そこを待たないといけないなと。今は、ちょっとインターネット販売は横に置いて。卸販売をしようということで、この「人参ジュース」の卸販売を始めたわけです。

――最初のヒット商品が?

人参ジュースこれが、うちのヒット商品です。

■■ ヒット商品~にんじんジュース~ ■■

――この「人参ジュース」はどういった経緯で開発されたものなんですか?


実は参画してくれた埼玉のある農家の団体が、「うちでこんなのを新潟の工場で作ってもらってるんですよ」っていう話があって。

「どれどれ」って飲ませてもらったら「美味しいね、これ」「じゃあ、うちもやらせてもらうおうよ」って農家から人参をいただいて。で、主に千葉の農家の団体の無農薬の人参を中心に作ってもらって、それを販売してたんですよ。そしたら大手の通販会社が「伊藤さん、これ美味しかったよ!うちで売らせてよ」っていうことになって。「あ、是非是非!」っていうことで初めてのヒットした。

――これは、プロ・アクティブでも販売させていただいているのですが、大好評。すりおろしの人参がそのままみたいにドロっとしているのがおいしいですよね。

そうですね。これは作ってる方が、日本有機農研っていう団体の幹部で、有機栽培をずっとやってたもんですから、人参を余すことなく、果肉も入れようということで、作られたもの。

大手のジュース飲料さんはとにかく大量に一日にバーンと何十万本と作って安いコストで出すっていうのが、ジュースの仕上げ方なもんですから、それと全く違う。

果肉がすごく入って、ドロドロとしてね。まあ、何でもいかして作っていこうっていう。やっぱり農家あがりの社長さんなもんですから。

それに私も当時は日本でこここしか作れるところがなかった。今はもう1箇所、お願いして作ってもらってますので、2社ありますけど。

――不揃いのにんじんも使うのですか?


そうですね。加工する時に全部手で皮を剥くんです。だから市場に出すより大きくした方がいい。大きくすると農家の人も量がかさむんで、農家のためにもなるし、それを果肉ごと加工する方も非常にありがたい。

――最近の人気商品は?


去年から出したんですけども、「野菜サクッチ」という野菜のチップスですね。人参、ごぼう、さつまいもとレンコン。レンコンは時期があるんですけど、その他は大体年中作れる感じではいます。

――その「きら星」っていうのは何ですか?


これは干し芋ですね。これね。非常に美味しくて、「ぜひうちで売らせてください」っていうことで茨城で作ってもらってます。

■■ 経営の苦労 ■■

――20数年、ここまで経営されてこられて、ご苦労、これは大変だったことはありましたか?


あります。もう死にそうでした

まず最初はインターネットのホームページを作るのに、今は大体10万とかなん万で請負ますよ。みたいなね。すごく安いですけど。

当時は最低1000万円

―え!?そんなに?

ほんとう!
当時は、ホームページを作ることすら難しい。だって新しいビジネスですから。それをできるエンジニアってのは少ないわけですよね。まあそういったことで最初の1年2年で売り上げもなかったですから2億円ぐらいパーになりました。


――よく、持ちこたえられましたね。


いや、本当。でも潰すわけにいかないし、私は前の会社、IBMに戻るわけにもいかないわけですから。だから本当、自分の蓄えてたお金とあとサラ金からお金を借りたり。

――え?サラ金からも?


サラ金っていうか、カードローンとかね。何枚もカード持って、あっち出して払ったら、ちょっと何がしか入金されたら、それをまた払って、ていう繰り返しでしたね。

自殺する人の気持ちってよくわかりました

朝、「じゃ、行ってきます」って玄関を出ると足が動かないんですよ。だって会社に行けば必ず取り立ての電話がかかってくるわけですから。

「いつまでに払ってくれますか?」こっちは払えるあてはないんだけど「1週間後にはお支払いします」「2週間後まで待ってください」

まあ本当にこんなことばっかりでした、最初。


――その時、従業員さんは?


社員はいたんですけど、もう給料が払えないからやめてもらったりして。三人くらい。

――その後人参ジュースのヒットで助かった?

人参ジュースが当たる前に、まず青汁を作ってたんですよ。当初は「赤汁」の会社じゃなくて、「青汁」の会社だったんです。(笑)

キューサイさんはケールで成功されてたんですけど、うちは二番煎じになるからって言うんで、ケールはやめようって。有機栽培の無農薬栽培の小松菜でね。

兄貴が工場建てて、「俺のとこで供給してやるからよ」とかっていうことでやったんですけど、売れなかったですね。

取引先の生協さんとかヨシケイさんとかちょこちょこと買ってはいただいたんですけども、なかなかやっぱり長続きしなかったですね。


■■ 二度目の危機 ■■

――その創業当初のご苦労を乗り越えた後も23年の間には山あり谷あり?どうやって乗り越えてこられたのですか?


まあ、最初のが一番きつかったですけど、もう1回、危機が

会社やり始めて8年目ぐらいですかね。人参ジュースをバーンと売っていただいていた、その当時110億近くまで売上げてた会社さんがいきなり倒産


で、「伊藤さん、ちょっと資金繰り厳しいからちょっとあれして」っていうのも少しあったんですけど、その他に2ヶ月分だとかの売掛とか色々あって。もらえなかったお金が2億円でしたね。

倒産記事で債権者の一番上が「イー・有機生活」だったんですよ。弊社なんですよ。 本当、笑えない。


そこまでガーンと伸ばしてきたんだけど、そこでまたドーンと借金生活ですよね。


――とはいえ、エンドユーザーさんは皆さん商品を待っててくださったんですよね?


そう。だからその取引が続けられたのが、まあ、今生き残ってこれた最大の要因なんですけどね。

■■ 生産者からの「ありがとう」■■

――伊藤社長がこうやって頑張ってくださったおかげで、消費者からも農家さんからも喜ばれているわけですよね?


そうですね、今本当に、生産者には、いつ行っても「ありがとうございます」って感謝されます

だって農家は形の揃ったものしか市場に出せないんですよ。ところが大きくなったやつでも、形の悪いものでも全部、うちは引き取るから。それは嬉しいですよ。

「その代わり少し安くしてね」って。「単価的にはもうそれで十分ですから」って言っていただけて、ウィンウィンの関係なんです。


――そうですよね。スーパーとか八百屋さんで並んでる人参はある程度サイズがそろって袋に入ってる。みんな同じサイズですもんね。



だから、小さいものは全部捨ててたわけですよ。加工用に回しても、加工用にすればすごく安い価格ですから、それを中間くらいの値段でうちは全部買えるわけですから、農家にとってはすごくありがたい。

――飲ませていただく方もね。栄養たっぷりで、生産者がわかるのは安心だし。

もう本当に無農薬栽培のあの無化学肥料栽培のね。人参でやっていますんで。

■■ 無農薬の理由~次兄の分まで~ ■■

――山形のご実家も農家。お兄様が有機・無農薬栽培に切り替えた理由はあったのですか?


私は農家はやってないんですけど、うちの兄ですね。うちの兄貴が長男で、私は三男って言いましたけど、今、兄弟は二人しかいなくて、まあ兄も亡くなったんですけど、間にいた次男のお兄ちゃんが農薬事故で亡くなったんですよ。

――農薬事故?おうちで?誤って飲んじゃった?
そうそう。

昔ね、ちょうど小学校に上がる時だったんですけど、1年先輩の小学校1年の隣のお兄ちゃんが学校でアイスキャンディの作り方を教わってきたんですね。雪がありますから。雪の中に穴あけてそこに水を入れて棒を刺すとアイスキャンディができる。

それだけを食べてれば、なんていうことなかったんですけど、その子が「色をつけたい」って言って。

もう数十年前の話ですから、私の生まれる前です。もう72年くらい前の話ですね。

それで色をつけるっていった時に、田舎には農薬ってのは結構あるわけです。青酸カリみたいな、青い色の綺麗な色になるやつがあった。

子供だから知らないから。誤ってアイスキャンディを作るときに、それを入れた。

お前食べろ」って言われて渡されて、うちの兄貴が食べたの。

七転八倒して亡くなった


そういうことがあって、農薬はその後も使ってはいたんですけど、うちの兄貴は自分の弟が亡くなったんで、農薬は使わないで、できるだけ化学肥料だとかに頼らない農業をしたいと。


――弟さんが目の前で亡くなられた一番目のお兄様がその後、有機栽培農家をやられていて、その後生まれた3男の伊藤社長が、長男のお兄さんを助けるような形でこの仕事をなさっているのですね。


2番目の兄が亡くなったから、うちのお袋は「もう一人男の子産まなくちゃ」と頑張ったって言ってました。(笑)


――でも、その亡くなった真ん中のお兄さんのおかげで、今、伊藤社長がいらっしゃる。


そうそう、そうですね。だから私の孝博っていう名前なんですけど、「孝(たか)」っていう親孝行の「孝」っていうのは兄の名前なんです。

それに一字、博士の「博」ってつけて「孝博」。だから、亡くなった真ん中の兄貴の分も頑張らなくちゃならないっていう気持ちは、あります。

■■ これからの挑戦 ■■

――創業当時から世間も変わってきて・・・・、これからどんなことをやっていきたいですか?


そうですね、今まではスーパーとかには販売はしてなくて、通信販売が中心だったんですけれど。

今は商品企画をして新しい商品を出していて。今店舗でうちの商品が見える時代になってきましたので、これからも農産品を使った新しい商品を作っていただいて、それを我々は売らせていただくという形で、もっともっと続けていきたいなと思ってます。


――振り返ってみてそそろろ四半世紀。どうですか、今。


そうですね。最初にど~んと(落ち込んで)。途中ガーンと上がって(上向きに)、ドーンって(下がって)、今はなだらかにやや上向き。

厳しい中に入っては来てますけど。仕入れてそれを他に移すという卸売っていうだけの世界では駄目で。

やっぱり自分達で作った物を販売するということをこれからもやっていきたい。安定した会社にして、規模感もそういった意味ではもう少し大きくして。

で、後進に道を譲ろうかなと。

――バトンを渡せそうな後進は育ってるのですか?

はい。育っています。
今年からまた一人。


――おおきな循環の中で命を繋いでくって大事なことですものね、それは人も企業も。そういう世界に携わりたい、そういう企業で働きたいという若者も増えてきている?


そうですね、ずっと皆さんやめないで来てますから。みんな、もうどんどん年齢が来てるんで。

やっぱり新陳代謝も必要。ある意味で新しい人たちを採用できる会社作りをしてこうかなと思ってます。

■■ ふるさと・山形 ■■


――ところで、伊藤さんはふるさと・山形についてどんなふうに感じてらっしゃいますか?

向こうにいた時は見えなかったんですけど。

私の家は学校に一番遠くて。冬は雪の壁!ブルドーザーではくじゃないですか。そうすると壁ができますよね。そうすると、そこがまた雪でフラットになって大変な思いをして歩いて通ったんですよね。一時間とかけて雪道をね、吹雪のね。

あの時代ちょっと辛い。あんまりいい思い出はなくてね。昔の辛い思い出みたいのが多かったですけど。

今行くとやっぱり「ああ、故郷っていいな」って思いますね。

東京だとまあ何でも手に入りますけど、あの自然の景色だとか、やっぱり農家の暖かい話し言葉からしても。俺はまだずっとまだ訛りが残っててね。(笑)


――本当に長く東京にいらっしゃるのに山形訛りが残っていらして、いいですね。

みんなに言われる。(笑)


――それだけやっぱり大事なところ?

そうですね。今親父もお袋も兄貴もいなくなったけど。向こうには姉さんがね、義理の姉さんがいてその家族がいて、まあ、後継いでくれてるんだけど。行くと、本当に「あ、孝博ちゃん!帰ってきたね」って言ってあたたかく迎えてくれる

――山形は温泉もあるし、スキーもできるし、いいところですよね。

あっ、スキーはプロ並みにお上手と聞きましたが?


そうですね。まあ、高校の時スキー部に入ってて。それから大学入っても、スキーしたかった。でもスキーって高いんですよ。道具とかね。

親に仕送りしてもらってたんで、どうしたらいいかなと思った。 そこで、プロスキースクールのインストラクターをやらせていただいて。


――アルバイトしながら。


そうそうそう。アルバイトしながら、校長先生に教えていただいて、技術も上がって、よかったです。

――ところで、伊藤社長。山形の食べ物で一番好きなのは何ですか?

僕はね。「ずんだ」。「ずんだ餅

うちの会社でも山形で作ってもらってるんですよ。あんまり売れてないんですけど(笑)

「ずんだ餅」は好き。

田舎では正月とか、みんな餅つをき家でやって、その時に磨り潰してね。一つ一つ。

やっぱりお袋が作ってくれたやつを食べるのが好きでした

■■ずっと大切にしてきたこと「みずのたま」■■

――「イー有機生活」という会社をやってこられて、ずっと大切にしてきたことはありますか?


やっぱり若い時は「自分が、自分が」って思って生きてきたんですけど。結婚して子供も生まれてってなると、やっぱりかみさんに尽くしていかなくてはならないのかなっていう気持ちですね。

会社をずっと続けてきたのも、自分の力ではなくて、社員の人の力なわけですよね。

だからその社員の人が働きやすい環境つくりはしてきていますので、そういった意味でも生産性を上げて。「あぁ、あの会社にいてよかったな」と思ってもらえる会社つくりをしていきたい。

生産者にもっともっとコネクションをとって、その辺をうちの下の若いものにつないでいくのが私のこれからの仕事かなと。農家周りをしていきたいと思ってます。

自分一人の力では何もできないですから、やっぱり団体で力を発揮する

だから今の人数をもう少し増やしていきたいなとは思ってはいるんですけど、そんなに大きくはしたくないんです。

まぁ、いい加減なね、私みたいな人間がやってますから(笑)、目が届かなくなっちゃいますから。

――会社経営をとおして、想いをつなげていく。すばらしいですね。

これからも生産者も私たち消費者もどちらも嬉しい、おいしい商品を楽しみにしています。今日はありがとうございました。

(聞き手:株式会社プロ・アクティブ 「ほーりー」堀場由美子)

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