2022.3.15
「おかげさま」の祈り

入江 富美子

映画監督・セミナー主宰・作家

株式会社トータルプレイズ代表取締役社長
映画監督、作家、ザ・セレブレーションセミナー主宰
国連関連の平和フィルムフェステイバルアジア代表審査員
伊都・高野山ユネスコ協会理事

ドキュメンタリー映画「1/4の奇跡〜本当のことだから〜」(2007)・「光彩〜ひかり〜の奇跡」(2008)・「天から見れば」(2011)を制作。ミッションプロデューサーとして、「へそ道®」を進化させた『ザ・セレブレーションセミナー』を主宰。また、作家として代表作「へそ道」他全6冊を出版。
 

入江富美子オフィシャルウェブサイト

『へそ道』サンマーク出版

――今日の「みずのたま」インタビューは入江富美子さんに来ていただきました。いつも「ふーちゃん」って呼ばせてもらっているので今日も「ふーちゃん」と呼ばせてもらいますね。では、ふーちゃん、自己紹介をお願いします。

映画監督とセミナー主宰と作家という肩書で活動しています。

『1/4の奇跡』『光彩~ひかり~の奇跡』『天から見れば』という映画を3本監督させていただきました

他にも5本以上の映画に関わっています。

そして昔は「へそ道」という名前でセミナーさせていただいていたんですが、今はCELEBRATION という形で。自分の命を輝かせて喜んで生きるっていうことをお伝えしているセミナーをしています。

――私が最初にふーちゃんに会ったきっかけが、映画『1/4の奇跡』でした。その映画を見て感動、ふーちゃんに会いたいと思ったんですけど。映画を撮ろうとしたきっかけは?

映画を撮ろうとしたっていうよりも、私、自身が自分のことをあんまり受け入れてないというか。今の自分を改善して良くならないといけないと思ってたんで。まぁまぁ、自分にダメ出しをしてたわけですね。

当時子供が幼稚園の年長と年少でした。

自分は自分のままで大丈夫なんだ」、「この私のままでいいんだ」ってことを子供たちに伝えたいと思いながら、自分は自分にダメだしをしているっていうこともあって。

何かができるとかできないとか、うまいとか下手とか関係なくね、存在が素晴らしいんだということをね、やっぱり自分自身もそう生きたいと思いましたし、伝えたいという思いが、映画を作るというきっかけにはなりましたね。

――その時はお仕事は何をなさってたのですか?

映画を作っている時は、アロマテラピーの、フランス校があったんですね、アロマテラピーというより、エステティックがフランスは有名なんですけど、フランスのトータルな学校のアロマテラピー担当として日本校の専門学校の講師をしていました。なので、専門学校の講師をしながら、二人の子供を育てながら、夫もちゃんといますよ(笑)、よくシングルマザーと間違えられますけど(笑)。で、そうしながら映画を作ったという感じですね。

映画を作り終えたら、映画で忙しくなって、アロマテラピーの仕事がちょっと忙しくてできなくなったっていうのが今ですね。

――では、ちょっとふーちゃんのお仕事歴を遡って・・・。

アロマテラピーの前は? 

アロマテラピーをする前は、気功を教えていました。

アシスタントではあったんですけど。中国ですごいチカラのある有名な気功の先生のアシスタントしてたんですね。アシスタントをしながら勉強してたんですけど。

それでフィットネスクラブに呼ばれて気功を教えたりとか、あとちょっとかぶるんですけど、気功の治療みたいなこともできるようになっていたので、気功の治療と整体とアロマテラピーを組み合わせたサロンをやって、スクール3つと専門学校の講師とを同時にやってました。

――気功の前は?

刺繍の会社を立ち上げていましたね。

刺繍ってね、パンチングって言って、こんな大きなプログラムにコンピューター入力するんですけど。ミシンで、10頭とか20頭とか頭があって、ばーって機械で打っていく、パンチングっていう仕事があったんですね。それはコンピューターで入力するんですけど、その会社をしてて。

私とアルバイトの人で。私が直接プログラム入れるので、まあ、一人社長みたいなもんですけど。5年くらいやったんかなぁ~。ふふふふふ(笑)。・・・やってましたね。

たとえばカステルバジャック、カステルバジャックってわかりますか?あと、ディズニーランドだったら、(胸に)ぷーさんの刺繍とか。結構やりました。

――へぇ~、すごい!そしてその前は?

ケーキ屋さんで一回バイトするんですよ。

そのバイトの前にファッションデザイナーをしてたんですね。

――ふーちゃんってとってもおしゃれ。子供の頃からファッションに興味があったんですか?

ありましたね。うち、叔母と一緒に暮らしてたんですけど、叔母も服飾関係ですし、母もずっと私の服もミシンで縫ってくれてましたし。叔母二人がすっごいおしゃれだったんですよね。だから子供心にきれいなものはすごい好きでいたんですけど。

6年生の時にたまたま子供同士で遊んでたら、お友達のいとこがやってきて、その人がデザイナーだったんですよ。

「私ね、デザイナーしてんねんけど、自分のデザインしたお洋服を着ている人が道の向こうから歩いてきてくれて、すごい幸せ」って話をしてくれたんですよ。6年生の私たちに。

それを聞いた時に想像なのか現実なのかわからないくらい、前から自分がデザインした服を着た人とすれ違うってどんなに幸せだろうって、思って、その瞬間からデザイナーになるって決めました。

――実際にどんなお洋服のデザインを? 

キャリアゾーンって言って、その頃バブルだったのかな。W浅野、若い方はわかんないかもしれないですけど。トレンディドラマが真っ盛りの時で、ボディコン、ワンレンの時代。

本当にデザインしたら売れたっっていう時代でしたね。

――なるほど!ふーちゃんってファッション業界にいたんですね。

ファション業界の人には言えないくらい、ただ好きなだけ。ただ好きだし、ずっとずっとファション関係に居続けたわけではないので、そんな自信があるわけではないですけど。ただ好きだし。

ファションをやってた時の自分が好きなんですね。それは人の目を気にしなかったからなんですね。

――人の目を気にしなかった?

しなかったですね。他のことは人の目を気にする癖に、お洋服には。

たとえば18歳の時にすごい憧れているブランドがあってね、それはキャサリン・ハウネットというロンドンのブランドだったんですけど、真っ白な麻のトレンチコート売ってたんですよ。

トレンチコートと麻って融合しないでしょ。しかも真っ白。いつ着るん?(笑)

しかも分厚い、麻。かっこいい~って思ったんですよ。

結構自分からしたら勇気のいるお洋服でしょ?夏にこれ着たら、かっこいいって思ったんですよね。だから中はタンクトップに半ズボン?(笑)ショートパンツ履いて、その白のコート羽織って歩いてる自分って、なんてかっこいいんやろう~って思ってた18歳なんですね。(笑)

でも夏、そんな恰好してる人、いないじゃないですか?おかしいじゃないですか?だから頭で「そんなんおかしいんちゃう?」ていう声が聞こえたんですよ。聞こえたのに「いいねん、私、これがかっこいいと思ってるから」って思ったのをいまだに覚えてるんですよ。

「私強い!」って。

――そういうのって大人になるにしたがって蓋をしがちじゃないですか?

めちゃくちゃしましたよ。特にお母さんになったら、赤ちゃん抱っこするので、肌さわりのいい服とか、ここに赤ちゃんのほっぺが当たるから綿の服とか、子供を着替えさせやすいから自分も脱ぎやすいとか、ゴムの・・・・とか軽いとか。

選ぶ基準がそれになってきた時に、またそこから子供が生まれるまでアロマテラピーの仕事してるから、そこファションをトータルでやってるようなメイクも全部あるようなスクールだったんですけど、子供が生まれてから戻るっていう時に、何着ていいかわからなかった。

何着ていいかわからないし、何着ていいかもわからなくなってたんですね。

どう合わせたらいいかもわからなくなっていて、びっくりしました。

※ 多才を発揮。絵も描くふーちゃん。個展も開催しています

――いろいろな職業を重ねながらも二児のお母さんでもあって。どんな子育てだったのでしょう?

30代ぐらからあなたは子供がだいぶできにくいって言われてて。若い時から子供は欲しかったから。でも落ち込んではいなかったんです。それで34の時に授かった子なので、すごいかわいかった。

ところがね、かわいいはずなのに、なんかうまく育てられなかったんですよ。かわいいと思えなかったんですよ。

びっくりして!こんなにかわいいのに、こんなかわいい子がいるのに、甘えたのは私っていうのに気づいてしまって。

「私、こんなに無邪気に親を求められなかった」みたいな。そんなんがでてきて、すごい葛藤したんですよね。

なんでかな?と思ったら、恥ずかしい話なんですけど。子供が生まれてくるでしょ。そしたら「甘えたいのは私」っていう気持ちが出てきたんですよ。

あぁ、私、愛したいのに愛せない。子供をかわいいのにかわいいと思えない自分に直面してしまうんですよ。

――それは、ふーちゃんが子供のころ「甘えたいのに甘えられなかった」という経験をしてきたから?

そうですね。もともとは天真爛漫で、好き放題やってる子供だったんですけど、5歳の時にね、朝起きると隣で父親が心臓麻痺で死んでいるという経験をしたんですよ。

で、救急隊員の人が「あと5分早かったら」って言った時に、今まで天真爛漫、わがままに楽しく生きてきて、そこの周りにいる家族、みんなが悲しむ。昨日の夜まで元気だった父が朝死んでるわけですから。29歳ですからね。それを私のせいだって思っちゃったんですよね。

「あと5分早く気づけば私が助けられたのに」「こんなにみんなが悲しんでるのは、私のせいだ」って思っちゃったんですよ。

そこから、わがままは言ってるんだけど、わがままは言えなかったっていうか。「みんなをどうやったらもう一度あの頃の笑顔にできるだろう」ってすごい考えるようになって。本当は自分が「怖いよ」とか「助けて」とか「私悪くないよね」ってあったと思うんですけど、それよりなんか、どうにかしないとと思ったんですよね。

そのうち、どもりになったりとか、幼稚園に行かなくなったりしたんですけど。その時代がどうしても、「早く大人になって親を楽にさせてね」っていう時代だったから、「頑張らないと!頑張らないと!」って思ったと思いますね。

――そんな子供の時の抑えていた気持ちが、子供を産んで、出てきた?

まさかと思いましたよ。それまで封印してきているじゃないですか、気持ちを。

でも、「え~~~、甘えたいのは私だ!」って思った時から、子育ては自分育てって言いますけど、その自分と直面していくっていうのがありました。

でも私のやっているお仕事って自己受容を深めるとかアロマテラピーの講師とか、教える側でしょ?だから、知識としては知ってるわけですよ。子供の頃の自分を癒すとか。

なのに実際に湧いてきた感情に対して驚いてしまって、生きることと、知っていることは別なんだって、身をもってわかりましたね。

――ご自身の体験の積み重ねが今の仕事につながるのですね。「へそ道」とかのメソッドなどを通してわかちあおうとセミナーを始めた?

「こうしようとか、こんな風にやっていこう」って思ってやってきたんじゃなくて、そうなってきた。今できることをやっていたらそうなってきた。

私の独りよがりかもしれないけど。私明るく見えるし、いろんなことに挑戦してきたし、「そんなに悩みないよね」ってみんなに言われるんですよ。

悩みはないかもしれないけど、何か、わからない生き方については、考えてるそういう人っているんじゃないかなって思ったんですよ。

それまで、子供が、結婚が、仕事が・・・って全部うまくいけば幸せになるって思ってたんですね、私。この頃は幸せだと思うんですよ。だってそれをやれば幸せになるって信じてるから。

それに向かって突き進んでいけるけど。結婚して子供もできて、これで全部手に入るって思ったら、そこにはなかった・・・。求めていたものがね。

自分がこういうかたち、ああゆう形って、これを得れば幸せになるって、自分から描くものにはそれはないんだって思ったんですよ。自分が求めているものはね。

だとしたら、自分から描くものではなくて自分の命が求めていることを、これから先は生きていこうって決めたんですよ。

――自分から求めるのではなく、与えられていることを生きる?

「与えられている」っていうと自分がない感じがするんですけれど、「命の自分」「教え込みの自分」ってあると思いません?「建前の自分」と「本音の自分」みたいな。

なので本当の自分はあんまり後先考えなくて、やりたいことやって動くタイプなのに、建前の自分は周りに迷惑かけないように、そこそこ評価もあって、安定していていうのを選んできたので。それは大事なことなんだけど、でもそれをやっても虚しかったから、今度は私自身の命の部分みたいな部分が、本音ですよね、本音で生きようって決めたのが2005年だったんです。

――その本音で生きようと決めた2005年に何か大きな出来事があったんですか?

いい質問してくれますよね~(笑)

私、おばあちゃんが大好きだったんですよ。おばあちゃん子で。おばあちゃんが亡くなったんです。

多分、今聞いてもらったから気づくんですけど、父が死んでから、みんな、たとえば祖父祖母、母、おばさんたちみんな、悲しんでいる。だから幸せにしないとって思って。自分が何をしたいかより、みんなは何を望んでるんだろか?って生きてたと思うですよね。

その一番大きかったのが祖母だったと思うんですよ。祖母は自分の息子を29歳で亡くして悲しんでいる。自分の大好きなおばあちゃんが、そうやって悲しんでいる。だから無意識におばあちゃんがこれを望んでいるんじゃないか?おばあちゃんがこれを選んだら喜んでるんじゃないかって、選んできてたんじゃないかなって思ったんですよ。

だから祖母が死んだとたん、自分が死んだんですよ。え?私、自分の考え、なにもない。

祖母が亡くなったとき、崩壊ですよね。

――祖父母の笑顔のために、自分が演じてた?

うん、無自覚ですけどね。

いなくなった時に初めてちょっと解放されたような感じで。

解放って自分でやってることやから、別に向こうがやってることじゃないんですけど。祖母が亡くなった時から私は自分を生き始めるきっかけをもらったんだと思いますね。

≪2005年 湧き上がる感謝≫

――それが2005年?

2005年の10月に祖母が亡くなったんですね、それが大きかったんですけど。

祖母が大好きだったし、祖母のためにってやってきたし。いろいろ我慢もしてきた。

でも祖母からはわがままやと思われたけど、でもすごいかわいがってくれて、お互い大好きだった。

でも2005年にその大好きだった祖母が亡くなった時に、悲しくて悲しくて仕方がないていう感情プラス、もう祖母への恨み・つらみがでてきてたんですよ。「私はこんなにガマンした~。なのに、ひとつもわかってくれなかった~」って。それこそ恨みが出てきた時にね、「え~」ってあんなによくしてくれて、感謝してもしたらない祖母に対して、恨んでたって出てきた時にびっくりして。

びっくりしたんですけど。ところがね。その時、私子供がいましたから、子供には「自由にしていいよ」「なんでもしていいよ」って言ってましたからね。

でも、自分のおばあちゃんへの恨みが出てきた時に、自分にはできなかったんですよ。

「何を思ってもいいよ」ができなくて「感謝しなければ」になってたですけど。もう疲れ果ててたので、人生にね。

なので、その時ね、恨み・つらみが出てきたら、自分の子供だったら「つらかったね」「しかたないね」って言うじゃないですか。だから初めて自分に「あぁそういう想いがあってもしかたないよ」って味方したんですよ。

自分に初めて味方して。それまではそんなんが出てきたら「あなたのせいでみんなが悲しんでるんだから、頑張りなさい」って自分が自分を叩いていたんですけど。その時は自分の感情を許したんですね。

そうしたら5歳の頃の自分の感情がまたぶあーって出てきて、大人になった自分が「5歳で隣でお父さん死んで怖かったよね、感謝なんかできなくてもしかたないよ」って声かけられたんですね。

その瞬間に私ね。体が溶けるみたいになって。シューって溶けたと思ったら、へその奥から「ありがとう~!!!」って感謝が湧きだしたんです。

――「ありがとう~」って!

もうびっくりしましたよ。

さっきまで感謝できなくて恨み・つらみだった自分が、「ありがとう~」って感謝が沸き上がった時にね、それまではね、自分がだめだから何かを改善してこれから未来をよくしようとか、ご先祖さまにダメな人がいたかもしれないから自分が改善しようとしたり。

ダメな自分が選んだソファも家もすべて価値がないように感じていたのが、「あ、この私でいいんだ」って感じた瞬間から、ご先祖様も、持っているものも,自分にご縁があるすべての人が「これでいいんだ~」ってばばばばばばって一気にひっくり返ったんですよ。

あの感動は今でも忘れないですけど。ひっくり返った時に、いろいろ人生を成功して幸せになりたいってしてきた自分だからこそ、「違う!!」、今の瞬間の自分を肯定した時に、この宇宙すべてを肯定できるんだって感動しちゃったんです。

――自分を肯定すると、宇宙すべてを肯定できる!?

自分の存在を肯定した時、ここがオッケーなんだとしたら、どこにも間違いがないってことですよね。自分につながるプロセスは。

でも、自分にダメってした時、自分につながるどっかのプロセスに間違いがあるって言ってるのと一緒だから。どんなによくしてくれた人のことも否定することになるって感覚がわかったんですね。

周りを変えて幸せになろうとしてた時はなかなかなれなかったんですけど、一瞬だったんですよ。

――そのふーちゃん自身の深い気づきをみんなで分かちあいたいというところから映画を作ったり、「へそ道」などのいろいろな活動になっている?

そうなんです~!!

その時にね、本当に一瞬だったんですけど、「わかった~~~!!」って。

いつもこの例を出すんですけどね。

ヘレンケラーが、どれだけサリバン先生の手で教えてもらったけどわからなかったけど、水を手に当ててもらって、ウォーターってわかった瞬間、「あ、ウォーターか!!じゃ、あれもこれも・・って、わかったかのように、私はあの2005年の大みそかの夜にこれから先なんでもわかるって、いう感覚がきたんですよ。

ところがね。ところが。

体感はあるんですけど、言語化できなかったんですよ。

ボキャブラリーはないし。説明ができない。じゃ、どうしようって思った時に、私、デザイナーだった時に、「あ、これ絶対に未来に売れ」るって直感がきても、プレゼンがうまくなかったんですよ。「こうだから売れる」とか、「これをやったらいくら売れます」とか言えないから却下されるわけです。却下されて、翌年売れて悔しい思いをするってことを繰り返してきて、自分の中にちょっと後悔があったんですよ。

自分のことを押し通せなかったこととか、ちゃんと伝えれなかったこと。だからプレゼンできないから完成したものを見てもらうっていうのが『1/4の奇跡』だったんです。

自分自身も言語化できないけど、完成形だけわかってるんですよ。だったら、この途中説明できないから、私のやりたかったのはこれですって。完成形はこれですって見せるしかないって思ったんですよ。

『光彩の奇跡』『天から見れば』も同じ思いで作って。

映画を見てくださった方が、「どうやってミッションを生きられますか?」って質問がものすごくて。

毎回多かったんです。今みたいな説明じゃわかるようなわからないじゃないですか。

――「じゃ、どうやったらいいの?」っていうことから「へそ道」が誕生した?

そう、私はもともと専門学校の講師をしていたので、プログラムを作るのが大好きなんですよ。やったら、最低2日はかかったんですよ。いろいろやってみて、初日だけだと、頭の理解で終わるんですね。2日目からその人からちょっとずつ湧き出してくるんですよ。だから最低2日はいるなと。

そしてここから感覚を深めるにはあと2.3日いるな、ということで「へそ道」は基礎コース、王道コースってあったんです。

それの0期が、ほーりーですね。

最近はあの時のほーりーとおんなじことを言ってくださる人が増えて。

※インタビューアー ほーりー(堀場)「このセミナーが広がったら世界中が幸せになるって思った」

体感も増えてきてますから。そこから9年以上続いてきていますから、もう私と同じくらい確かだと体感してる人も増えてきてますから。本当に何もないところからここまで「確かだ」という仲間ができてきたことは、本当にありがたいことだと思いますね。

――9年の間、やめたいとか、うまくいかないとか、ご苦労はなかったの?

苦労といえば苦労なのかもわかんないんですけど。言ってみたら、自分のへそって遺伝子だったり、水の湧き出しポイントじゃないですか。

そうするとね、湧き出しポイントが夜にいろんなことを教えてくれると言うか。あの言葉でじゃないですよ。「あ~~~」「あ~~~」っていうのを。夜中にセミナーを受ける感じなんですよね。

で、夜メモにするということを繰り返してプログラムができていったんですけど。そうすると毎回「すごい!完成!」って思って、セミナーしますよね。そしたらまた教えてくれる。ここまで出来たんやったら次っていうのが来て、また次プログラムが更新、更新、更新ってされるんですね。

これまで、「へそ道」を教えたいって言ってくださる方もいてくれているんですね。「教えていいよ」って言おうと思った瞬間に、次に更新されるんですよ。次に更新されるから。固定されてないっていうのかな、完成がなくて。

――どんどんバージョンアップしていく感じ?

そうそうそう。常にアップデートっていうんですかね。

ただ私が言ってることは初期から変わっていません。

やり方、方法、言ってることは一緒なんですが、エネルギーがアップデートされていくので。私が言ってることは初期から変わってません。なので、録画見た人がみんなびっくりされるぐらい。

同じメッセージを伝えているのにも関わらず、やっぱり初期からおられる生徒さんは、もう同じように体感が上がってきてますよね。そうすると、ここ(上)のゾーンで聞いた人とここ(下)のゾーンで聞いた人は同じ話なのに、全然違うんですよ、体感が。そういうフィードバックを生徒さんからももらってます。

――やめたくなる時もあった?それはどういった時に?

何回もやめかけてるって言うのありますよ。

そのやっぱり最初はね、「これが全てだ」と思ってた時はみんなに伝えるって張り切れたんですよ。張り切れて。

これ伝えたら全員本当に世界中幸せになると思って、張り切って、子供のようにわ~って伝え始めて。

で、次の層、次の層ってなっていって、ここら辺までは「もう最高~♪」って言ってたんですけど。ある瞬間から無限って分かっちゃったんですよ。

この学びは永遠だ」ってわかった瞬間から、それこそ「道」ですよね。

わかった瞬間から「これってもう私が教えなくていいんじゃない」。って。伝えなくても、それぞれが自分で歩んで行く道だから。私は私で磨いていきたいという職人気質がどうしてもあるんですね。

「ここがわからない」っていうことがね。「こっち側に行きたいから分からない」は楽しいんですよ。だけど「理解できないっていうわからない」もあるじゃないですか。

理解できないっていうわからない」世界は説明できない世界だから、私には言葉が追いつかないなと思ったんですよね。

そういう意味でこんな説明のつかない世界を、説明すればするほど、何か離れていく気がして「もうやめよう」って思うことは何回もありました。

――やめようと思った時、なにがふーちゃんを引き戻したのですか?

やめようって何回も思ったんですけど。

やめようと思った時に、それで救われてる人達のフィードバックだったり、必ず私を立ち上がらせる事柄が起きるんですよ。必ず起きるんですよね。「やってほしい」とかね。

自分でなんとかっていうよりも「あともう一年頑張ろう」って思うんですよ。あともう一年頑張ろうというのは、私はこれで、一生成長していきたいと思ってますけど。私の言葉が追いつかないっていう意味では、できない世界だけど何とかやれるとこまで自分の分かる範囲でやろうって。今年もやっぱり同じで、今年一年は力を振り絞って頑張ろうっていう感じです

今年一年で私は終わるんだろうなって思いながらやってますね。暗い意味ではなくってね。

だって、ここ(へそ)から湧いてきて。言語でもないし。その何でもないんですよ。私が感じるここは、湧いてくる情報って、自分の中ではすごいんですよ。だけど言語にできない、でしょ。で言語にしたら100わかっていることの3ぐらいしか喋れないでしょ。

そうすると、言えば言うほど自分がしんどくなってきて。分かりやすく言うと、もっとちっちゃくなって自分が感じてるのはをこんなにありがたい感じを感じてるのに、「ありがとう」っていう言葉で終わっちゃうみたいな感じだったんですね。

でもそんな時にいつも私がもう1回もう1回続けようと思わしてくれるのは生徒さんですね。もう私はがやってる活動で何が素晴らしいっって生徒さんですよね。

――生徒さんとの交流は講座以外でもあるのですか?

私、ある日アシスタントさんに言ったことがあるんけど「私。大きいこと気づいいたんや。生徒さんって友達じゃないねんで」って言ったんですよ。

友達じゃない って気づいたから。

そしたらアシスタントさんが「そうですよ」って。「え?知ってたん?」(笑)

私、区別がつかなかったんですよ、生徒と友達が。今もあんまり区別ついていないと思うんですけど。

なんか生徒さんから感じる、そこを生きたいって言う「気」。こんな美しい「気」をもって生きてる人たちがいるから、もう一度頑張ろうと思わせてくれる。ほんと生徒さんのおかげですよね。

※生徒さんたちと一緒に海外にも。イスラエルツアーは、ほーりーも参加しました。

あと、もう一個!!

ほーりーのおかげです。

――そんな、(笑)とってつけたみたいに言わなくても・・・

取って着けました(笑)

それはね。なぜかと言うとね。「ゆの里」さんと繋げてくれたのが、ほーりーなんですけど。

今こうやってほーりーが聞いてくれたので、これまでの何回も辞めようと思った事とかそのお話できましたけど。それすらうまく言えたかどうかわかんないんですけど。

「ゆの里」さんで会長さんがご存命の時から会長さんとか社長のお話を聞かせてもらった時に、いつもね、原点に戻らせてもらってたんです。

原点に戻って、「そうそう、こういう気持ちで仕事ってするもんだなー」って思って、もう一回やってみようって思えたし。

今はアクアフォトミクスでお水と光の研究が進んでる、そのお話を聞かせていただくたびに、同じと言うと失礼なのかもしれないけど。

「私たちの体は水なんだ。水と光なんだな」と思った時に自分の感じていることをもう1回そこで照らし合わせさせてもらいながら、「やっぱりこれって素晴らしい、すごいなあ」

まあ、私なりのことで、喜んでくれる人がいるんやったら、もうちょっとやろうと思えるのは、「ゆの里」さんがあるからなんですよ。

「ゆの里」さんのない人生とか。ちょっと考えられないんですね。

※大切に思う場所、和歌山県 天然温泉「ゆの里」

――いつも、そうやって「つないでくれたのは、ほーりー」って言ってくれることが、本当にうれしいですし。ふーちゃん、えらいなって思います。ありがとう~。

――では、最後の質問。ふーちゃんが今まで大切にしてきたことがあるとしたら。それはなに?~みずのたま~

私がいつもなんか虚しかったりとか、虚しいっていうのは、なんかがちょっとだけですよってすごい物事がうまくいってるのに何かが違うなって思う時って何かって言うと必ず答えが一つだったんです。

これが足らない時だったんですけど。それが「祈り」が足らない時だったんですね。

祈りって何か神様に向かって祈るみたいですけど。ではなくて、自分一人でやってるって思ってる時に虚しくなったり、うまくいってるのに幸せじゃなかったりする感覚がふって感じるなと思ったんですね。

でね、祈りってね、やっぱりその自分というものと目に見えないものとの関係性がちゃんと意識してるから祈りってできるじゃないですか。

なので、うまくいってたとしても、祈りっていうのは、もっと大きな玉の中で動いてる自分を意識してる時って、祈ってなくても祈りだと思うんですよね。

だから大事にしてるのは、しょっちゅう忘れるくせに大事にしてるのは、「おかげさまで生きてる」って言う事なんですね。

「おかげさまです」って祈りだと思っていて。

あの影の力とか目に見えない世界と一緒に生きてるって感覚がなかったら、お陰様って言葉も出ないし、祈るってことも出ないんじゃないですか。

困ったことがあったら何が何でも自分でやるぞってなるけど。

この今の状況も環境も、もしかしたら大きな目線から見たら、これどうやってここ通るとか、どうやってこの子はクリアできるって、もしかしたらあのお天道様に見られてるかも見て頂いてるかもっていう視点があると、ふあわんって視点が変わってくるんですね。

その一点が「へそ」なんですけど、だからいつも皆さんにお伝えしてるのはね。皆さんにね、また例えばだけど。

ごめんやけど、ホーリーが死んだら手を合わすじゃないですか。

私が死んだらほーりーも手合わすでしょ。

ちょっとほーりーも手合わしてもらっていいですか。私もほーりーに手合わすから。

≪お互いに手を合わし祈る≫

こうやってね。手を合した時、合わしてる先があると思うんですよ。

そしたら、ほーりに手を合わせているようだけど、ほーりーに「永遠に幸せでいてね」って手を合わすでしょ。そうしたら、ほーりーの死なない命に手を合わせている。

天に還るものに手を合わせてますよね。だから「へそ道」または「セレブレーション」とは、

私たちは、もともと死んだら天に還るものが本体で、死んだら天に還っていると思うからお墓に手を合わすんですよね。でも生きてる間はそこに意識を向けないし、死んでからしか仏さんやと思わなじゃないですか。

でも生きてる間から、この人の本体は、死んだら天に還るもので、ずっと生きてきた命が今ここにいて、死んだらまた天に還ると思うと、見方がすごい変わるんですね。

変わるだけじゃなくて、私がセレブレーションって名付けたように、死んだら天に還る命のエネルギーで私たちはこの地球を生きれるようになるんですね。

そうするとまるで祝福されてるような中で、悩みもするし、落ち込みもするし、この問題どうしたらいい?でも全部が祝福っていうのをいろんな人が今、体験もされているし、私もそこを生きてるんですね。

なので、死んだら天に還るものがこの人が本体なんだ。って私はパートナーシップの中でも夫を見るようにして生きていると、ちょっとやそっとね。この上側の宇宙服がね、色々あったとしても、それはただの、入れ物っていうか、宇宙服の機能が、ちょっとこの機能が私はあまりね、もうちょっと違う機能の方がいいし。

この宇宙服の顔も竹野内豊の顔に変えたいなとか思ったとしても(笑)、それはその奥にある天に還るものの私たちはご縁で出会ってるから、たとえば、ここに竹野内豊が来たとしても(笑)、わかやすくしてますよ。竹野内豊が来たとしても、竹野内豊の中にある死んだら天に還るものと私はそんなに惹きあわないないかもしれないんですよね 。

本体として、じゃあどうやって生きるの?というのを本当に分かりやすく伝えてるのか the CELEBRATION っていうことです。

ありがとうございます 

――ふーちゃん、わたし、カメラの向こうで感動して泣いてました!

今日は、ほんとうにありがとうございました。

ふーちゃん、だいすき♡

★もっと、ふーちゃんに会いたい人は「入江富美子オフィシャルウェブサイト」へ。

みずのたまインタビュー番外編 重岡社長×ほーりー(テキストのみ)
まず、自分を愛で満たす
信じるということ
「自分が幸せそのもの」
「仕事を通じて恩返し」
自分にちょうどいい感覚を分かち合う
「だからこそ」まごころを尽くす
今を。一瞬、一瞬。