2022.8.5
「だからこそ」まごころを尽くす

白駒 妃登美

博多の歴女

株式会社ことほぎ 代表取締役

福沢諭吉に憧れ、慶應義塾大学に進学。卒業後、日本航空に勤務し、1992年には宮澤喜一首相訪欧特別便に乗務。その後、企業の接遇研修講師、結婚コンサルタントとして活動中に、大病を患う。命と向き合い、歴史上の偉人の生き方を改めて丁寧に紐解くなかで、かつての日本人が生きていた「今を受け入れ、この瞬間に最善を尽くし、天命に運ばれていく」という『天命追求型』の生き方にシフトする。生き方を変えたことで奇跡的に病状が快復。

 2012年、株式会社ことほぎを設立し、日本の歴史は「志」のリレーであり、報恩感謝の歴史であることを伝える講演活動を本格的に開始する。講演では「こんな歴史の先生に出会いたかった」「日本人に生まれてよかった」と涙する参加者が続出。コロナ以前、全国各地での講演・メディア出演依頼は年間200回に及んだ。コロナ以後は、オンラインの『和ごころ大学』や自身のオンラインサロンを含め約400名の塾生の方々と日々研鑽を重ねつつ、コロナ禍にあっても活躍の場を広げている。

主な講演先は、経営者勉強会、企業、全国の幼稚園・保育園・小中高校、教育機関、官公庁など多岐にわたる。

天皇陛下(現在の上皇陛下)御即位三十年奉祝委員会・奉祝委員、天皇陛下御即位奉祝委員会・奉祝委員、公益財団法人モラロジー道徳教育財団・特任教授、福岡大学経済学部非常勤講師、教育立国推進協議会・発起人などを歴任。

株式会社ことほぎ ウェブサイト

白駒妃登美和ごころサロン(オンライン)

和ごころ大学第3期

“人生に悩んだら「日本史」に聞こう”~幸せの種は歴史の中にある~(祥伝社)
“感動する! 日本史”~日本人は逆境をどう生きたか~(KADOKAWA)
“こころに残る現代史”~日本人の知らない日本がある~(KADOKAWA)
“愛されたい!なら日本史に聞こう”~先人に学ぶ「賢者の選択」~(祥伝社)
“子どもの心に光を灯す 日本の偉人の物語”~歴史を学ぶと希望が生まれる~(致知出版社)
“歴史が教えてくれる日本人の生き方” ~日本の歴史は「志」のリレー~(育鵬社)
“幸せの神様に愛される生き方”~夢を超えた素敵な現実を生きる方法~ (育鵬社)
“誰も知らない偉人伝”(KADOKAWA)
“古事記が教えてくれる天命追求型の生き方” ~夢はなくても輝ける~(HS出版)
など著書多数

――こんにちは。みずのたまインタビュー。今日は「博多の歴女」白駒妃登美さんに来ていただきました。出会いはずいぶん前、妃登美さんが2冊目のご著書を出された頃でしたね。お久しぶりです!まずは今の活動、自己紹介からお願いしてもいいでしょうか。妃登美さん、よろしくお願いします。

はい。よろしくお願いします。私は本当はただの主婦だったんですけれども、歴史好きが高じて歴史の本を書いたり、歴史の講演をさせていただいています。

日本の歴史や文化ってこんなに素敵なんだよっていうことを若い世代に伝えたいなって。

1番喜んで欲しいのは、歴史上の人物達になんですけど。こんなに何百年も経って「僕の気持ちを分かってくれてありがとう!」みたいな人が1人でもいてくれたら、嬉しいなっていう思いで。そういう活動をしています。

≪主宰の「和ごころ塾」にて≫


――過去に生きた歴史上の人物に喜んでもらうのが1番嬉しい?

そうなんですよね。歴史って、私達が授業で習うのは結構、事実関係だけじゃないですか?でもその出来事に至るまでのご本人の葛藤とか、いろんな、未来の日本人に託した思いとかあると思うんですよ。

そういうのを私達が汲み取ることで彼らの命も輝くし、今生かされてる私たちもそれを知るとすごく幸せになるんですよね。

よく若い人達が「自分探し」っておっしゃって、私もそういう時期があったんですね。やたら旅に出ようとしたり、アルバイト先を転々と変えて、何が自分に向いてるのかなとか思ったりしたんですけど。

でも自分探しよりもなんか「お手本探し」だなって思って。


こういうふうに生きたら、こんなに日本人が輝ける。こんなに幸せ指数が上がる。そういう例が歴史の中にいっぱいあるので、お手本さえ見つけたら、なんか自分探しってする必要ないなって思って。そんな気持ちで活動してます。

――「お手本探し」ですね!その活動をするようになったきっかけ、歴史を好きになったきっかけが、なにかおありだったんですか?


二つのきっかけがありまして。一つは歴史を好きになったきっかけですよね。そしてもう一つは今の活動を始めるきっかけ。そう二つお話しようと思います。

一つ目のきっかけは、幼い頃から伝記が好きで読んでたっていうのはあったんですけど。でも歴史って学校で習っていると暗記科目のような感じで、あんまり歴史の授業そのものは好きではなかったんですよね。

歴史に目覚めさせてくれた恩人は、実は国語の先生だったんです。歴史の先生じゃないんです。

高校の時に国語の時間に万葉集を習ったんですよね。その時に先生が「万葉集が大好き」っておっしゃって。

もちろん歌の言葉の意味とか文法なんかもやるんですけれども、それだけじゃなくて、「こういう歌が生まれるに至ったのは、こんな時代的な背景があったからだよ」とか、あるいは「この歌人はこの歌を残した後、こんな人生を歩んでいくんだよ」って話をしてくださって。

私、その先生の授業受けて万葉集が大好きになったんですけど。表面的な理解じゃなくて本当に深く理解するには歴史を知らなきゃいけないと思って、それで歴史に没頭したんですよね。

だから今、私ミイラ取りがミイラになった感じで(笑)。本当は万葉集に戻りたいのに。なんかその寄り道だったはずの歴史に今、どっぷり浸かってるっていう感じ。でもそれはまたそれで、すごく素敵な豊かな時間を過ごせています。

歴史に興味を持っていた私なんですけれど、大学を卒業して航空会社に就職をして、国際線に乗務したので、世界いろんな国に行きました。でも本当の日本の歴史や文化の素晴らしさは、海外の人達に教えてもらったっていう感じなんですよね。

「茶道をどんな物なのか知りたい、教えてくれ」っていう方とか。あるいは「1000年も昔に、女性があれだけの文学作品を残してた民族なんか他にいない」って。もちろんそれは源氏物語の紫式部のことを言ってるんですけれども。

何でしょうね。もちろんそういう歴史や文化が好きだと思ってたんですけれども、本当の魅力、本当の素晴らしさは海外の人達に教えてもらった感じがするんですよね。

その時の気づきを10何年前かな。もう14~5年になるのかもしれないですね。ブログ記事に書いていったんですけれども。

そのブログを立ち上げたきっかけが、ひすいこたろうさんなんですよ。当時ひすいさんの『名言セラピー』っていう本がね。もう本当に累計発行部数何万部になるのかしら?もう大ヒットですけれども。その『名言セラピー』のスペシャルバージョンで幕末版を出したいっておっしゃっていて。そんなひすいさんに私は出会うんですよね。

で、幕末のことを本にするなら、当然歴史が好きな人なんだろうと思って。私もひすいさんのこと、大好きだったので、共通の話題見つけたと思って、こう、ぐいぐい歴史の話をしていたら、ひすいさんが「妃登美ちゃん、ごめん。僕ね、あの~、実は吉田松陰と高杉晋作と坂本龍馬が好きなだけで、全然歴史に詳しくないんだよ」って言うんですよね。

私、「え?ちょっと待ってください。その3人しか知らないのに、幕末の本、出すんですか?」って、もうすごい驚いたんですよね。

もしよかったら私、多分ひすいさんよりは詳しいから、いろいろ聞いてくれたら答えられますよ」って言ったら、ひすいさんがそれからどんどん、いろいろ聞いてくださったんですよ。

もう何回もやり取りをした結果、ひすいさんが「妃登美ちゃんの歴史の話を聞いたら、日本好きになる人が増えるからブログを立ち上げなよ」って言ってくれたんですね。それで、ブログを立ち上げたら、どんどんブログの読者さんが増えていって、そして出版社の方がそのブログ記事を読んで、本にしたいって言ってくださったんですよね。

そこから出版や講演の道になんか運ばれてきたっていう感じですね。だからひすいさんはものすごい恩人です。


――ひすいさん、すごいですね。新人発掘能力も!!

だからデビュー作はひすいさんとの共著なんですよ。私が書いた原稿にひすいさんがコラムをそれぞれつけてくださって。またそのコラムがね、ひすいさんらしくて、なんかすごい私は自分のツボにはまっていて好きなんですけど。

ひすいこたろうさんとの共著が作家デビュー作≫

――そんな妃登美さんが、歴史好きが講じて大学の進学先を選んだと伺ったのですが。


普通は歴史が好きなら、文学部の史学、歴史を学ぶ所に行くと思うんですけど。まあ私の場合はいろんな人の伝記を読んで、福沢諭吉が1番好きだったんですね。

福翁自伝』っていう福沢諭吉が晩年に自分の人生を語るんですよね。それを聞き取って書いた人がいて、だから書いたのは別人なんですけれども。でも語ったのは福沢諭吉なので、一応自伝文学って言われていて。

多分、自伝では最高峰じゃないかなって私思ってるんですけど。そう、その『福翁自伝』を中学生の時読んだんですよ。中三の夏に読んで、私もこの人が作った大学に行きたいと思って。

大学受験まで持ち越したら自分は多分全然駄目だと思ったので、中三の夏に一大決心して高校受験に挑んで、慶応に進むんですね。

かなり成績はよかったので医学部以外はどこでも行けるっていうふうに先生から言われたんですよ。だけど私は経済学部を選んだんですね。

なぜかというと、今はね、多分ほかの学部の方が上なんですけど、当時は経済学部がやっぱり医学部を除くと慶応の看板学部で、まあ偏差値が1番高かったっていうのもあるんですけど。

でも実は、幕末の戊辰戦争が起こって、上野の山に彰義隊っていうね。幕府方の人達がこもってちょっと戦いになるんですよね。

でその時に大砲の音が響くんですけれども、福沢諭吉は「大丈夫。まだ遠くで戦いが起こってるだけだから、うろたえずに自分達は勉強を続けなきゃいけない」と。福沢諭吉の名言の一つに、「ペンは剣より強し」っていう言葉があるんですけれども。授業を続けたなんですよ。

私はその伝記の描写がかっこいいなって思っていて。その時に福沢諭吉が塾生たちに講義していたのが経済学だったんですよ。

それでまあ、半分は見栄なんですけど、半分はその大好きな福沢諭吉がね。その戦っていう非常事態の中で淡々と自分のできることを魂込めてやっていた。それが経済学だったので経済学部に進学先を決めました。

≪学校講演にて≫


――ところで、今のキラキラの笑顔の秘密が、幼少の頃からのご家庭の方針があったとお聞きしましたけれど?

そうですね。家庭っていうより、私、おばあちゃん子で。一緒には住んでなかったんですけど、結構近くに住んでいて、おばあちゃんが好きで毎日おばあちゃんの家に行ってたんですよね。

おばあちゃんがその時私に言っていた言葉が、今思うと本当に味わい深いんですけれども、「自分の機嫌は自分で取りなさい」って言ってたんですね。

でも、そういうふうに言われるっていうことは、幼い頃私はいつも笑顔がなく、ブスっとしてたんです。(笑)

なんだろう、なんかわりとね、孤独感みたいのを感じてて。変なところ、達観はしてたんですよね。「どうせね、人間っていうのは、生まれて出た瞬間から1人1人違う人間なんだから、そんな自分の気持ちを100%理解してくれる人なんていない」っていうところから私の人生はスタートしてて。(笑)

だから自分の気持ちを誰かに分かってもらおうとかって努力も全然昔はしてなかったし。私、それでまあ、ブスっとしてるというよりは、あんまり人間関係を積極的に作っていこうっていう子じゃなかったんですよね。

今でも覚えてるのが、祖母の兄弟が仲良くて、いつも兄弟でよく集まってたんですね。ご飯を食べたり温泉旅行に行ったりして。私必ず祖母の後に金魚の糞みたいについてね。祖母と行動を共にしてたんですよね。

理由は、祖母が大好きなことが一つなんですけど、もう一つは祖母の兄弟って気前が良くて、行けば必ずお小遣いくれるんですよね。ところが、気前良すぎて到着するや否やお小遣いもらっちゃう。普通帰りにもらうでしょう。だけど到着するなりもらっちゃうから、もう私としては後は早く帰りたいんですよね。

で、多分その時は本当にブスっとしてたんだと思うんですよ。そこに言われたのが「妃登美、笑うか、帰るかしなさい」。

――「笑うか、帰るか?」

そう。「ブスっとしたまま居続けるっていうのが、どれだけ周りの人の迷惑になっているか考えなさい」って言われたんですよ。もうね、「公害と一緒だ」とか言われちゃって(笑)

――その時幼い妃登美さんはどう思ったの?

それは結構ガーンってきたんですけど。ただね、それがおそらく小学校の低学年、1年か2年ぐらいの時の話なんですね。

3年で運命の出会いがあって、私の人生本当に変わるんですよ。

――それはどんな?

1.2年生は同じクラスだったんですけど、3年の時にクラス替えがあって。
ある女子生徒と一緒のクラスになって。その子がですね。いつもニコニコしてるんですよ。

私は当時結構成績もよかったし、まあ運動もわりとできる方だったんですよ。で、彼女が私よりは多分勉強も運動もできないんだけど、でもいつも、ニコニコしてる彼女を見て、私は「神様が幸せにしたいのは私じゃなくこの子の方だ」って思ったの。

絶対そうだって思ったの。で、「私はどうしたいの?」って自分に問いかけて、「私が神様に愛してほしい」「幸せになりたい」と思ったから、その子の真似をするようになって。家は遠かったんですけど、毎日一緒に遊んだんです。

真似をするなら一緒にいることからだから。よくほら「学ぶ」の語源は「真似ぶ」だって言いますけれども。もうそれをね、地でやってたんですよね。

だから、3年生の時に私は本当に努力をしてね、褒めていただいた笑顔を獲得できました。

――そんな優等生で笑顔もピカピカで、目立ってたと思うんですけど、やっかみとか、そういう嫌な思いはしなかったのですか?


あんまり幼い頃は感じてなかったんですけど、ただ、あぁそうね、一つね。私にとってはこれも大きな学びだったんですけれども。

小学校1年生から春は硬筆、冬は小学校3年生からなんですけど、毛筆の書き初めがあって、毎年クラスで何人かが選ばれて市の展覧会に出てたんですよ。私ずっとそれに出てたんですけど、6年生の冬に当然私毎年出てるから、今年もまた冬休みは書き初めで潰れるんだって思ってたんですよね。

そしたら担任の先生からクラスの代表者が発表される前日に放課後呼ばれたんですよ。担任の先生になんで呼ばれたかっていうと。

あ、私旧姓は小林っていうんですけれども。「実は書道の先生が選んだ3人の中に、小林の名前があった」って。「でも小林は今までずっと選ばれてたよね。で、最後ぐらい他の人に譲ってあげてほしいんだけど」って言われたんですよ。

それで私ね、結構ショックだったんですね。「なんか変!」って。

私もそんなに、努力っていう努力じゃないけど、でも自分なりにね、やっぱり一生懸命頑張ってきた結果選んでいただいてたのに。「え?譲らなきゃいけないんだ!」って。

でも当時の自分には、先生に逆らうとかっていうのがなかった。考えがなかったから、「分かりました」で、「はいっ。もう私はじゃあ、今回辞退します」って言ったんですよ。

その翌日ですよ。朝、先生が「じゃ3人を発表します」って。名前を呼ばれたら普通は皆、呼ばれた子達の方を向くじゃないですか? でもクラス中「えー!小林、駄目だったんだ」って言ってみんな私に注目したんですよ。

私泣きそうになっちゃったんですね。「ええ、なんで~?」って「ほっといて!」って思ったんですけれども。でもこの嫌な空気感を何とか変えたいと思った時に、不思議なんです。なんか考えたわけでもないのに。急に自然と自分の中に出てきたのが、その3人の名前、「なんとかちゃん、なんとかちゃん、なんとかちゃん、よかったね~」って。「頑張ってね」って。「よかったね!」って言ったんです。

そしたらその嫌な空気がぱーと変わって、もう皆ちゃんと先生の方を向いて授業が始まったんです。

私その時学んだのは、気持ちはね、ついてってなかったんですよ。でもなぜか、よくわかんないけど、人のことで、すごく自分のことのように喜んだんですよ。そしたら自分の中にあったその先生に対するちょっと引っかかってた思いとか、「え?なんでみんな私の方を向くの?」って。みんなはその経緯を知らないから「落ちた」と思ってるんですけれども。なんか選ばれた子に「よかったね」って言えばいいのに、「なんで落ちた子にそんなに冷やかしたりするんだろう」っていういやな思いが渦巻いてたんですけれども。

なんか人の喜びを我が喜びのように受け取ったら、「あ、こんなに嫌な感情がなくなるんだ!」雪のように消えたんですよ。

それはその後の私の人生にとっては、すごく大きくって。とにかく、そういう気持ちじゃなくても、人の喜びを一緒に喜ぶ、人の悲しみを自分がそうなった立場にたって悲しむ。それがその中で学んだことで。

そうすると心がそうなっていくというか、心が整っていく

――あー、この話はすごい大きな出来事ですね。

あぁ、っていうか、初めてしちゃった、こんな話!というか、今、思いだしましたよ。

――体験を通して、それに意味づけしてきて、今の妃登美さんがあるということ?

私、歴史を語ってはいるんですけれども、やっぱりその歴史の捉え方っていうのが自分が培った価値観や考え方で見るんですよね。

で、そういう意味では私が出会った素晴らしい御縁の中で忘れられない方はですね、今でも90歳でお元気で私毎月お会いして学ばせていただいてるんですけど境野勝悟(さかいのかつのり)先生がいらっしゃってね。

≪恩師・東洋思想家 境野勝悟先生≫

境野先生は鎌倉の栄光学園の中学高校の国語の先生だったので、いろいろと古典文学のこととか教えていただいてるんですけれども。でも禅の大家でもいらっしゃって。もう22歳から90歳の今まで座禅組まなかった日はないんですよ。

今までは結構講演とか出かけることも多かったんだけれども、今コロナの影響でね、ちょっと活動を自粛してらっしゃって、講演も全部断ってるから、すごい本を読んで勉強してるって。

この2年間の自分の成長度合いがすごくて、自分の伸び代の大きさに気がついた」とかっておっしゃるんですよ。90歳のおじいちゃんが「もう自分が怖い」とか「その可能性が無限で怖い」とかおっしゃってるんです。

その境野先生に教えていただいたのは、禅的な見方なんですよ。禅的な見方っていうのは、いい悪いっていうふうに区別しないんです。禅っていうのは、空(くう)の世界、無の世界じゃないですか。じゃ、空とか無っていうのは何なのかっていうと、「あるものがない世界」なんですよ。

じゃ、「あるものって何?」って言ったら、その「分別」がない。「分別」っていうのは「分ける」に「別れる」って書いて。で、よく「分別がある、ない」っていうと普通は物の道理がちゃんと分かってる人が分別がある人で、そういうのが分かってないとか分別がないっていうんですけれども。

でも、禅の世界で分別がないって言ったら、文字通り「分別」はもう漢字が示してとおり、「分けること」なんですよ。自分と相手を分けること、区別すること。あるいはいい悪いと、レッテルを貼ったりすることを禅はしないんですよ。あるがままを受け入れるんですよ。

そういうことを境野先生から教えていただいた時に、私は知らず知らずのうちに歴史を禅的に受け止めるようになったんですよね。

よく私たちは後出しじゃんけのようにね、歴史の後の時代を知ってるから遡って、「あの人がやったことはいいことだった」とか。逆に「これは悪いことだった」とかってレッテル貼っちゃうわけですよね。

でも、後からそんなふうになるなんてその人は知らないわけですし、本当に国のことを思って多分やったわけですよ。それがたまたま裏目に出てしまっただけなのに、「この人はいい人」、「この人は悪い人」って勝手にこっちがレッテル貼るのって。後出しじゃんけんで嫌だなって私思って。

もういい悪いじゃなく、本当に純粋にその人の魂と真心を交わしたいなって思って、日頃講演をしたり本を書いたりさせていただいてるんですね。

――なるほど!だから妃登美さんの歴史上の人物を語るお話は、生き生きとその人がそこに本当にいるように感じられるんですね。

そういえば、プロ・アクティブの連載『うちんTOMODACHI』でも、歴史上の人物が親友だっておっしゃっていましたよね?


そうです。そうです、そうなんですよね。

私、万葉集がね、高校生の時に何でそんな好きになったのかっていうと、実は幼い頃からちょっと、わりとうちにこもりがちな子だったでしょう。中学高校と笑顔を身につけて皆と仲良くなるって、だいぶそういう人生にはなったんですけれども。でもやっぱりね、人間である以上絶対心の奥底にそういう孤独感をかかえてるものだと思ってたんです。

だから例えば、友達と本当に楽しく過ごしているのに、別に誰にいじめられたわけでもない、傷つけられたわけでもない。でもなんとなく、ふっと孤独感を感じるような場面がなんかあるわけですよ。でも「これはもう現代人の宿命だな」「きっとみんなそういう時があるんだよね」って、あんまり気にしないようにはしてたんですけど。

ところが万葉集の授業でね、先生が1200年以上前に生きていた大伴家持っていう人の歌を先生が教えてくださったんですね。

≪奈良時代の歌人・大伴家持≫

「うらうらに照れる春日(はるひ)にひばり上がり 

心悲しも独(ひとり)し思へば」     

っていう歌なんです。うららかに春の日差しが降り注ぐ日ですよ。ひばりが空でチュンチュンチュンチュンね!あ、チュンチュンじゃないのかしら?(笑)ひばりがさえずりながら、空高く舞っていくわけですよ。

普通ならいろんな花が咲いて、春っていうのは心がウキウキする季節だと思うんですけれども。でも家持は、その春にひとり物思いにふけっている。もうその悲しみがね、止まらないんだと。

おそらくそのひばりが空高く舞い上がっていくように自分の心も空の果てまで行ってしまうような、そんな深い深い孤独感だったと思うんですね。それを先生が授業で扱ってくださった時に私「あぁ、この孤独感、誰にも分かってもらえないと思ってたけど、1200年以上前に生きてた大伴家持さんなら分かってくれるんだ」って思った時にね。なんか不思議なんですよ。「孤独感を持ってるんですけど、孤独じゃない」って思えたんですよ。「私だけじゃなかった」って思えて、なんか本当に救ってもらったんですよね。

だから思春期の孤独感は大伴家持に救ってもらって。いろんな場面で、この人が救ってくれたっていうのがあるので、1人1人が私の親友のような存在なんですよね。

――ところで、今のように全国で講演活動をするようになった当初は子育てもされてらして、家庭とお仕事の両立でご苦労されたことはなかったですか?

本の執筆を始めた時、実は私が大病患って。病院のベッドの上でずっとパソコンで原稿を書いていたんですけれども。当時上の子が小学校5年生で下の子は小学校に入ってすぐなんですね。

長期入院しながら原稿を書いていって、その本が翌年出版されるんですけれども。本当にありがたいことに本を読んでくださった方が講演も聞きたいって言って呼んでくださるようになったんですね。まだ当時は2人の子供が小学生だったんですよね。私はできるだけ、週末は子供達を主人に任せるにしても、平日は日帰りだけで対応できるものを受けていて。

本当にありがたいことに主催者の方々もそれを理解してくださって、そしてママ友の協力も得て、私が帰りが遅くなる時には「いいよ」って「うちの子と一緒にご飯食べさせておいてお風呂に入れとけばいいんでしょう」とかって言ってくださって。本当にいろんな方の協力でなんとか活動を続けられたんですよね。

でも、どんなに帰りが遅くなったとしても、朝はちゃんとご飯を作って「いってらっしゃい」をしようって。それが私の母親としての最後の砦だったんです。私はそこもどうでもいいってなったら、もう母親終わりだなって自分で思っていて。

人によってはね、「子供が帰ってくる時間にいてあげないなんて。それだけでも失格だよ」っていう方はいらっしゃるかもしれないんですけれども。

まあこういう親には、それなりの子が育つんですよね(笑)。手をかけなければ子供は手がかからない子になるんだって。本当に経験から思ったんですけれども。本当に子供たちがあんまり、手がかからなくて、「帰りが遅いのは全然いいよ」って言ってくれて。

ただやっぱり朝起きた時に私がいるっていうのはすごく子供にとって安心感だったみたいで。それだけはね、自分で守り通しました。

――子育て、大病、仕事。どうやって乗り越えてこられたのでしょう?同じような悩みをかかえていらっしゃる方も多いと思うのです。

私の場合は初め子宮頸がんになったんです。でもその時にはそんなに進行してなかったので、手術と放射線治療で元気になったんですよね。ところが2年後に治ったと思っていた子宮頸がんが肺に転移したと。まあ、この時が結構深刻で、主治医の方からは「こういう状況では助かった人を見たことがない」っていうふうに言われた、そんな状況だったんですよね。

ただ、ありがたいことに、本当にそのタイミングで出版の話をいただいて。葛藤したんですよ。私はもうほら自分の命がもうそんなに長くはないと思っていますから、その残りの時間の全てを子供のために使いたいって、当然母親として思ったんですよね。

でも同じタイミングで出版の話をいただいた時に、本当に自分が間もなく死んでしまうなら、今まで生きてきた証に本を1冊残してから死にたいなって思いもあって。

残りの時間のことをおそらく命と呼ぶんだと思うんですけど。その命の使い道で葛藤して。で、結局最後は出版に向けて踏み出していくんですけど。

でも今考えるとですよ。子供か出版かって二者択一と思ってたんですけど。第三の道ってあるんだなと。第三の道っていうのは全く違う道かもしれないし、二者択一で一つは捨てなきゃいけないと思っていたのが、いや本当はその二つを満たす道があるのかもしれない。なんか二者択一っていうのもね、私達が勝手に思い込んでるのかなって。これ後で気づいたんですけど。

結局、私、子供への遺言のつもりで本を書いたんですよ。あの時はもうどっちかは捨てなきゃいけないと思ってたけど、結果的には両方満たしてたんだなって。まあこれは後の気づきなんですけどね。

でもね、その原稿を書いてる途中で素敵なことに本当気づかせていただいたんですよ。

それはね、それまで私は自分の身に起こることの全てが過去の結果だと思ってきたんですよ。だから40代半ばで大病を患い、幼い子供2人おいて死ななきゃいけない、そんな生き方を自分はしてきたんだって私毎日過去の自分を責め続けてたんですよね。

でも原稿を書きながら、あるいは日本の歴史を改めて紐解いていきながら、そうじゃなかったんだって気づかされたんですよ。

私たちの身に起こることはもちろん過去の結果として起こることもあるんでしょうが、それだけでなくて未来に必要なことが起こってるんだって気づけたんですね。

もう歴史上の人物の人生って、ほとんどその法則が多分当てはまるんですけど。

≪江戸時代後期に活躍した全盲の学者・塙保己一≫

例えば私の故郷埼玉には塙保己一(はなわほいいち)という偉人がいまして。彼は江戸時代の後期の国学者なんですけれども。古い文献を集めてその文献の百科事典のようなものを作るんですよ。素晴らしい大偉業なんです。インターネットがなかった時代は古い文献を知りたかったら『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』という塙保己一が編纂した百科事典を紐解くしかなかったんです。

ところがその塙保己一は盲目。目が見えなかったんですよ。
彼はありえない記憶力を持っていて、その文献をいろんな人に読み聞かせてもらうんですけど、一度聞いた物は絶対忘れない。

やっぱり目が見えないからこその、そういう別の能力が並外れて発達したんだと思うんですけれども。

でも私はね、ずっと塙保己一が「目が見えないのに」あんなことができてすごいと思ってたんですよ。ところがその病床で、いや違うと。塙保己一が「目が見えなかったからこそ」あんな偉業を成し遂げられたんだと気づいたんですね。

どういうことかというと・・・。塙保己一の研究所が火事で燃えてしまったことがあるんですね。当時は今とは印刷技術が違って、版木という大きな板に職人さん達が一文字一文字、文字を彫っていくんです。その版木がほぼ燃えちゃったんですよ。だから弟子たちは「もう『群書類従』の発刊は無理です。諦めましょう」って言ったんですけれども、保己一だけは違ったんですね。

何を言ってるのか!確かには版木は燃えた。でも自分達は全員無事だし、元の文献を持ち出すことはできてるんだから、また一から始めればいい」って言ったんですね。

本来目が見えるって素晴らしいことじゃないですか。でも私たちは目が見えるからこそ、目の前のことに一喜一憂して、大切なものを見逃してしまっているのかもしれないんですよね。

保己一は子供の頃、7歳ぐらいだったかな?病気で目が見えなくなってしまうんですけれども、その後は、心の目を磨き続けたからこそ、本質とずっと向き合い続けることができた。だからこそ、あの偉業を成し遂げられたというふうに私には思えて。だとしたら、あの幼少期の失明というのは、私は天が保己一に試練を与えたと思ってたんだけれども。違うんじゃないかと。保己一が将来、自分の使命を果たすために1番相応しい環境を天が与えた

むしろ試練というよりは恩寵

「恩」というのは恩返しの「」に、「寵」は寵愛するの「」ですね。ウかんむりに「龍」という字を書きます。あれは天が保己一を愛していたから、保己一の使命を果たしてもらいたいからこそ、ああいう環境を与えたんだなと思った時に、私のこの病気もそうだって思ったんですよ。

この病気も何か分からないけれども、未来になにか私はやるべきことがあって。その未来の私を輝かせてくれるために必要な状況を、天が私に与えてくれたんだって。「私は天から愛されてるんだ」ってその時思ったんですよね。

そしたら肺に何箇所も転移していた癌細胞が画像で見る限りは全部消えてくれたんですよ。

それで十数年経った今も元気でいられるんですけど。ただ画像では消えてくれたんですけど、腫瘍マーカーの数値は高かったので、抗がん剤治療は受けたんです。

でもその辛い治療を乗り越えさせてくれたのも私の親友達で。具体的には伊能忠敬。そして増田敬太郎さんっていう、この方はね、本当に歴史としては無名なんですけれども、地域住民に感謝された警察官がいたんですね。明治時代に。そういう方々に支えられるようにして、私はあの抗がん剤治療も乗り越えることができたんです。

――「親友たち」って呼べる人たちがたくさんいらっしゃるんですね。そういうお話はぜひ妃登美さんの講演で聞いていただきたいですね。

ところで、妃登美さんが今までを振り返ってみて、これだけはずっと大切にしてきたなって思うこと、それを言葉にしたらどんなことでしょう。


ちょっと抽象的にはなるんですけれども、やっぱり私は「真心」を大切にしてきたと思うし、これからもうそれは揺るぎなく大切にしていきたいなって思ってるんですね。

どういうことかというと、私よりも歴史に詳しい人は多分山のようにいらっしゃるんですよね。1番このことを感じたのは、上皇様と上皇后様が天皇皇后両陛下だった時にベトナムにいらっしゃたことがありまして。その時に様々な公式の行事があって、その間に両陛下はですね、ベトナムの方々をお招きしているんですね。

≪両陛下、残留元日本兵家族とご面会 2017/3/2≫

どういう人達かというと、戦時中に日本軍はベトナムにもいたわけですよ。でも戦争が終わって多くの日本人は祖国に引き上げていく中、ベトナムに残った日本兵もいたんですね。で、彼らはそのベトナムで家庭を持つわけですけれども、戦後日本政府はその人達に帰国しなさいと言うんですよね。

でも日本国籍を持ってるのは本人達だけだから、ベトナムの家族は置いてかなきゃいけない。で彼らも葛藤があったと思うんですね。そのまま家族と一緒に暮らしたいっていう思いもあったでしょうし。でもね、それ以前、多分、おそらく当時の兵隊さん達でしたから、20年前後は日本に生まれ育って、日本にも家族がいてっていうね。そういう中で多分大きな葛藤を抱えながら、元日本兵達は多くが日本に帰国するわけですよ。

でも家族にそんなことを言ったらもう家族達は半狂乱になると思って、彼らはほとんど「もうちょっとそこまでタバコを買いに行ってくる」みたいなノリで、帰らなかったわけですよね。

大黒柱を失って、経済的にもベトナムの家族は大変だったと思いますし、そして当時はまだまだやっぱり偏見があったと思うんですね。今だったらハーフって言ったら逆に憧れる人も多いですけれども、やっぱり当時はそうではありませんでしたから。

ベトナムに日本兵が残してきた家族っていうのは、本当に経済的にも精神的にも辛い思いをしていらしたと思うんです。ですよね?

両陛下はそういうところにまで思いやりの心を持って、そのご家族達を呼んでおもてなしをして、そのご苦労を労われたんですよ。

私はそういう史実があったというところまでは知っていたんですが、そのご家族がその後経験したご苦労にまでは、思いが至らなかったんですね。

でも皇室の方というのはここまで歴史を深く理解し、しかも歴史の中の方々にここまで思いを寄せていらっしゃるんだ、と思った時に、私は大きな感動をいただくと同時に、ものすごく自分がダメダメな人間に思えたんですよね。

知識も浅はかだし。なんかその何だろう、本当に、なんか知識だけではなく、気持ちもね、本当に両陛下に比べて、なんて私は、思いがそこまで至らないっていう本当に人間的に未熟だなって思って。

いっとき、私、本当に実は自信をなくした時があったんですよ。こんな私が曲がりなりにも講師を務めたり自分の塾とかを運営していいんだろうかって。

でもその時にいつも境野先生から教えてもらったことの一つに、「だからこそ」って思いなさいっていうのがあったんですね。

例えば、私は都会にずっと住んでいて、自然の中の暮らしっていうの知らない、知らなかったんですよね。でも日本の文化っていうのは自然との共生なんですよ。だからその自然を知らない私が日本の文化が素晴らしいなって発信しちゃいけないって思ってたんですけれども。

境野先生は「自然の中にいれば自然の素晴らしさが分かるっていうそんなものじゃない」っていうんですよね。「対極にいるからこそ気づくこともあるんだ」と。

「千利休はあんなに茶人として風流を極めた人だけれども、もともとは堺の商人でお金稼ぎが得意だったんだぞ」ってね。そういう風流の世界とは対極にいた人間だから、その文化や自然の素晴らしさに気づけたんだっていうんですよね。

「だからこそ」って思うようにしなさいって言われて。それを思い出したんですね。

私が知識も浅はか、心も人間的にも、まだまだ未熟でもそんな私だからこそできることがあるって思えたんです。それは、私よりも歴史の詳しい人、そういういろんな所に心を配れる人はたくさんいる。彼らは素晴らしい講師にはなれるだろうと。

でも、私にだからこそできることがある。それは受講者と一緒に学ぶことだと思ったんですよね。何かを教えて差し上げるんじゃなくて、一緒に学びましょうっていうのは未熟な私にしかできないじゃないかってむしろ思えて。そこを今、私の誇りにしてるんです。一緒に学び続けることができる、その視点。受講者と同じ視点、視座で学べるっていうのが私の強みかなって思えるようになって。

でもそれには本当に真心。もう真心だけは常に100%尽くそうって。

知識のまだまだ浅い、そのことをちゃんと分かっている私が唯一できること。知識が浅くても、真心っていうのはもてるわけじゃないですか?

いつもなにか、どんな時もそうだったんですよね。例えば航空会社で働くときにも、まだまだ慣れていない新人の時には技量は本当に低い。でも技量は低くてもお客様に喜んでいただきたいっていう思いとか、この仕事を愛する気持ちとか、その真心ではどんなベテランにも負けないようにしようって思ってずっと働いてたんですけれども。だからうんその思いですね。

それが今の仕事だけじゃなくて人生を貫いているのかなっていうふうに思います。


――感動でもう言葉がないです。ぜひ講演会やオンライン講座やご本でみなさんにお話聞いていただきたいです。

妃登美さん、今日はありがとうございました。

★イマココ・ストア健幸コラム 白駒妃登美さん「うちんTOMODACHI」

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