横浜生まれ。19歳でロンドンに渡り、その後9年に及ぶ英国生活を経て、東京の外資系銀行、金融機関等に勤務。
1993年、ワシントンD.C.にある世界銀行本部から日本人初の人事マネージャーとしてヘッドハントされ、
のちに人事カウンセラーとして5年余り、世界中から集まったスタッフにキャリアや対人関係のアドバイスにあたる。
アメリカから帰国後は、企業人事コンサルティング、カウンセリング、講演、執筆業に従事。
また、世界銀行の元同僚から受け取ったメッセージを訳したものが後に「世界がもしも100人の村だったら」の元になったため、原文の訳者としても知られる。
現在は、独自のソーシャル・リース構想(Social Wreath・社会をつなぐ輪)のもと、
コミュニティを充実させて、一人ひとりの幸福度をあげる活動をしている。
『世界でいちばん自分を愛して』
中野裕弓著
日本文芸社
――こんにちは。今日のみずのたまインタビューは私の大好きな中野裕弓さん。横浜のご自宅へお邪魔しています。私はいつも「ロミさん」と呼ばせていただいてるので、今日もロミさんと呼ばせてください。ではロミさん、今どんなことをされてるのか、自己紹介をお願いできますか?
私の今の自己紹介をしましょうね。私は「ソーシャルファシリテーター」という名前を自分で作りました。多分20年ぐらい前にアメリカから帰ってくる時に、この名前を持っていたと思います。
ファシリテートっていうのは「人を促す」とかっていう意味ですけども、それを社会規模で、みんなの意識を高めて進化していきたい。そのお手伝いができればいいなと思って「ソーシャルファシリテーター」っていう名前を持ってます。
お仕事としては、カウンセリングをしたり、コーチングをしたり、それからセミナーとかをコロナの前までは、やっていましたね。
私。実はある時に急に脳卒中で家の近くで倒れたんですね。9年近く前になります。
それまでの私の人生と、その後っていうのはびっくりするぐらい変わりまして。そして、面白いことに、今の方が幸せ度が増してるんですよ。
すごくね、面白い人生を自分で選んできたなって思うことが、よくあります。
――その9年前に倒れられる前と後では人生が大きく変わったということですが、9年前まではどんな感じでお仕事されてたのですか?
若い頃は、やっぱり外国に行きたいということで、19歳でイギリスに行き、何度かイギリスに行って仕事をしたりしましたから、9年ぐらいロンドンに住んでるんですね。で、今思うとその頃の自分の生活の中から今持っている世界観が生まれてきた。
そしてその後日本に帰ってきて外資系企業にお勤めして。銀行でした。ちょうどバブルの頃でしたから、金融業界は目覚ましい発展を遂げていて、アークヒルズというのができた時に一番で入った会社でした。
その当時ね、外国人のスタッフもあちこちにいて、「まるでニューヨークみたいね、ここは」っていう時代にOLをしてました。華やかでした。
私は将来何になりたいっていうのは、特にその時は決まってなかった気がします。でも人が好きだった。だからいつの間にか人事全般を扱うようになっていて、そうこうしてたら、ずいぶん話端折りますけども。私のアメリカの銀行がバンクオブアメリカというアメリカの銀行に買収されるんですよ。それが私の人生の大きなターニングポイント。
今まで一緒に働いていた人たちが急にここは「合併だからやめてください」ってその時に私は120人のスタッフのうち40人をさよならしてくれって言われた時に人事をやってて。
私の上はアメリカ人ですから、やっぱり交渉事は全部私がするわけで。日本っていうのはリストラというのが文化として合わない国だなってつくづく思いましたね。
昨日まで一緒にランチを食べてた人がやめていくって、とてもとても承服できずに、決まった短い3週間の間に120人全員にお会いして、「今どんな状態ですか?」ってお話を伺った。
そしたらね。若いんだけど、お家でいろいろ抱えてるから今は転職の時期じゃない人。年齢はいってるけど気が充実してるからこれからまだまだ試せる人っていうのがいらっしゃって。
私の方からは何も言えない。お話を聞くだけですけども。最終的に何の訴訟もなく、袂を分かって次の職を見つけていく人達と残ってアメリカ銀行に吸収されるグループに別れて。
その1年後です。世界銀行からお話をいただいたのは。
世界銀行が日本から人を採用したいという、すごく珍しいことをやるので、ヘッドハンティングって言うんでしょうかね。アメリカのリサーチ会社が来て日本の人達をリサーチした。そしたらば、「リストラのことで訴訟問題なくして片付けたっていうケースがありましたよ」っていうので、私のところに繋がって。
その方が私にランチをいただきながらインタビューしてくださった。私はね、「嬉しいです」と思ったけど、その書類を見て、「あ、無理です」ってお返ししたんです。
――どうして?
それはね、日本から人事のスペシャリスト、マネージャーを採用する。でもね、日本人ならばどこにいる日本人でもいいわけで、実際に世界中にリサーチかけてますって。
で、その時にね。大学院卒以上という肩書で、それも学部指定があって、心理学か人事学の学位をちゃんと持って大学院を卒業して、なおかつ国際企業で10年以上のマネージャーの経験がある日本人の女性って。
――すごい条件ですね。
世の中広いから、そういう方はいらっしゃるでしょうと思いましたけども、でも少なくとも私は違います。だから丁重にお断りしました。
そしたら3週間経って「日本のマーケットでいろいろヒアリングしたところあなたの名前がよく出てくるので、やっぱり、あなたを推薦したい」って。
だから私は履歴書を書いた覚えがない。私がお話したことを、その方が全部履歴書に起こしてくださって送ってくださって。そしてまたいろいろございますが、その1年後には呼ばれて世界銀行に面接に行きました。
そして何人かの方が面接に行ったんですけど、いろいろな条件があるんでしょう。例えばご家族が日本にいる時旦那様もお子様もアメリカっていうのはなかなかすぐに動けなかったりしまですね。
で、その時に独身者は強い(笑)
私が「はい」って言えばいけるので、じゃあということで日本から呼ばれた。人事のスペシャリストということで行きました。94年でしたね。
――選ばれし者だった?
いや、いろんな運が・・・。今思うと、実力もまあ運のうちとは言いますけども。運というのと、それから、そういう世間の波があったんだろうと思います。
――そしてワシントンD.Cへ
最終的に行くことになって働くようになって、たくさんの学びがありましたね。世界での日本の位置付け。どういうふうに見られているかっていうことがありましたね。
Made in Japanっていうのは、私がイギリスに行っていた当時は粗悪で劣悪で壊れやすくて、形だけ綺麗だけど誰も欲しがらないようなローテクで誰でも作れるようなものだったんですよ。当時は。
その後、日本でも例えば他の国の途上国のMade inだとみんな「あーっ」て言いますでしょう?その感覚。
それでMade in Japanってまさに私がそうなのでね。自分自身がmade in Japan.
行ってみると風当りが強い。「それで日本って中国のどのあたりに位置しているの?」って聞かれたりして、認知度はそんな感じだったんです。
それがその後、今度世界銀行に呼ばれた頃に行ってみたら。なんとですね。Made in Japanというそのことがステータスシンボルになり、すごくハイテクで、みんなが憧れるものを生産している豊かな国になっていた。
――すごい進化ですね。
たったの何10年の間に。それこそ30年ぐらいの間かな?それぐらいの間にね。
「Made in Japan」を振り返ってみればね、やっぱりそこまで日本を強くするために頑張ってくれた方達。私の父親の世代のようにね、戦後の大変な時を乗り越えてくださった方があったから強くなったんですね。
当時はアメリカに次いで日本は2番目の大国でお金をを世界銀行に供出し、そこで2番目の国として途上国を助けていた。でもその前に戦後は世界銀行からお金を借りて黒四ダムとか首都高速道路とか新幹線を作ったんですよ。
だからその時にはお金を借りる国。それが私が呼ばれた時にはお金を貸す国。
世界銀行の借金を返し終わることを「卒業する」というのですけれども、日本はその当時卒業して、なおかつまだお金がいっぱいあるから、アメリカに次いで2番目の資金供給国まで上がってたってすごいと思いません?
もう日本ってすごいんだって思って行きました。
今ね、残念ながら日本は2位ではなくて、3位になりましたし、これからもまだ分かりませんけども。その当時は本当に飛ぶ鳥を落とす勢いという国でしたね。
――そんな世界銀行時代ですか?、あの「世界が100人の村だったら」という有名なお話を日本に紹介してくださったのがロミさんでしたよね?
私が日本に帰ってきた後ですよ。世界銀行の友人達から毎日いろんなメールが入ってくるんですよ。同僚達がいっぱいいますから、「元気かな?」って見てたらその中の1通が「今日がついてないなと感じたあなたもこれを読んだら世界が違って見えるかも」っていうやたらに長いキャプションだったんです。
差出人は世界銀行のスタッフでもっとも一緒に働いてた人で、人口問題の専門家だったので、なんだろうと思って見たら、あの「世界がもしも100人の村だったら」の原文が届いてた。
私はすごく感動してあっという間に翻訳しました。20分でした。私はこれを見た時に、なんかすごい希望を感じた。
だからこれを広めようと思ったんですけど、SNSがまだそんなにない頃でしたから、プリントしてそのコピーを講演会に持って行って皆様にお配りしてました。そしたらそれをいち早く自分のネットでね、ブログに上げた人がいて。
そうやってるうちに例の同時多発テロの年になるんですよ。私がそのメッセージを受け取ったのが春でしたけども、秋にそのことがあり、もう世界が震撼として、日本人も本当にこれで世界は駄目かもと思った時になぜかお配りしていたあのメッセージがみんなの中で回りだしたんですね。
で、最後に5行詩があるんですけども、覚えてるかな。
それはね。「かつて一度も傷ついたことがないかのごとくに人を愛しましょう」「お金のことを考えずに仕事しましょう」とか「あたかもここが世界があの幸せな国のように生きていきましょう」っていうような、今ちょっと急にだから出てこないんですけど、素敵なお誘い文で終わってるんですね。
実はその翻訳をお誘い文にしたのは私。原本は「人をかつて傷ついたことがないように人を愛しなさい」「お金のこと気にしないで働きなさい」って「こうしなさい」って悟す文がついてたんだけど、それを読んだ時に、悟されたら「確かにそうです。でも私無理です」って言っちゃうから、お誘いのLet’s レッツにしようって自分で勝手に考えてレッツに直した。
その後大きなブームになった時に、それをちゃんとリサーチしてる新聞社の方が、「あれを日本で翻訳したのは、中野さんが初めてじゃなかったです」って。「他の方がもっと忠実な訳をしてたんだけど・・・」って。。
――でもその訳では広がらなかった?
どうかな。でもそれはもしかしたらレッツにしたからかなって思いますけど。
それがあっという間に広まったということはびっくりですね。そんなこと思ってもいない。ただただ私が読んだら「世界はまだ間に合う」っていうメッセージだったんですよ。100人だもん。どうにかなるよねって。
あの頃60億だったのが今80億ですよ。なんでこんなに増えたかと思うんだけど(笑)
――そのレッツに訳した感性がやっぱりロミさんらしいですね。それが今の活動「ソーシャルリース」につながっているように感じますが?
私はね、一人一人をそのままリスペクトすることが大事だと思ってるんですね。前は「勝ち組」とか「負け組」とか「落ちこぼれ」とか、怖い言葉がいっぱい横行して。なんか人にラベルを付けるような動きがあったでしょう。
それで子供達はすごく傷ついた。
だから私はアメリカから帰ってきてから、仲間たちと若者を元気にするために、高校生のサマーセミナーをやってました。倒れるまでやってましたから9年間。
そこでみんなに伝えたのは、お勉強も必要かもしれないけど、人間力、ソーシャルスキルというコミュニケーションだとか、「世界をどう見て引っ張っていくか?」「できることで何ができるか?」って。
人に上下をつけるんではなくて、みんな違って皆が力を発揮すればもっと多様性に満ちた面白い世界で遊べるよっていうこと伝えたかった。
だから活動は続けています。「ソーシャルリース」という言葉をつくったんです。リースってクリスマスリースのように、輪っかになってる。それをイメージして一人一人がそのリースにちゃんと手でくっついたとしますよね。
ほーりーさん(聞き手堀場)と私は、こう手を出して繋がってるとすると、その輪の中に私が得意で皆さんとシェアしたいものを出すんです。例えば私はカウンセラーですから人のお話を聞くというのが得意だから「聞きますよ」とか。
あるいは誰かが「計算得意です」「絵描くのうまいです」「お料理が好きです」「旅行好きです」
いろん人が得意なものを全部出してくれてその輪っかをぐるぐる回るんです。
回ってるうちに「欲しかったです、それ」とか。お金は「こっち欲しかったです」という人に回ってたり。「歌を歌います」と言ったら「来て欲しい、ここで歌ってほしい」というふうに。
みんながそうやって「循環さえできれば、世界を平和にするのに必要なものは、もう全てこの世にある」っていう言葉が、アメリカで私の中にすごく響いた。
でも誰かが自分だけよければいいと思って、握ってしまうから足りない人が出てきて、羨ましくなって奪い返しに行くという、今起こってることがまさにそれですよね。
だからそれはもちろん戦争がいけないとかっていうことはあるんだけど、そういう思いにならないためには、みんなで互助会を作って、「楽しく暮らせますよ」っていうひな形が必要。それを社会をつなぐ輪っかでやっているっていうのが。「ソーシャルリース」という活動なんです。
その中には学校教育も入るでしょうし、社会福祉、クリエイティブなこと、コンピューター、全部が入って、もうみんなでクラブ活動のように楽しくやりたい。世界をそうやって作っていきたいっていう夢があります。
――ロミさんのおっしゃることに共感する人が増えているような気がしますよね。
――ところで、その9年前に倒れられてから、さらに幸せって断言されるロミさん。その経験を少しお話いただけませんか?
はい、断言しちゃう。
とても忙しくて、本当にその頃のスケジュール帳見ると、絶対私プラスアバターが二人ぐらいいた(笑)、クローンがいたに違いないと思うぐらいのスケジュール。
それ全部自分でやってたので。移動時間考えないでね。そしたら神様が「入れ過ぎじゃない?」っていう感じですよね。
何の前触れもないんですよ。高校生セミナーの9回目が終わって小田原から帰ってきた、その数日後に街を歩いてたら倒れたんです。もうバンといってて。脳内出血でした。すぐ病院に救急搬送されて、その後6ヶ月。右半身が麻痺しました。
どこに右手があるのか足があるのかも分からない。左の脳の血管が破れるっていうことはですね。言語障害が出ました。
だから言葉もちょっとおかしくなって。今はね、まあいくらでも楽しく喋れるようになったけど、最初は喋れない。「これで喋れなかったら私どうやって生活しよう」ってベッドの中で考えたぐらいですよ。
でも、不思議なことに勇気を持ってちょっと喋ってみたら、英語の方が早く戻った。英語が戻って安心して、もういざとなったら英語だけでカウンセリングすればいいと思ったら、日本語が戻った。
後で聞きましたら、ちゃんとシナリオがあった。
私の、それまでに本を30冊以上書いたりしたことはある意味、前哨戦。これからの世の中のための「ソーシャルリース」とか、ファシリテートするっていうことで、人々の意識を思い出してもらう。自分の中にが深い知恵があるんですよ。みんなそれに繋がればいいのに、そちらに求めないで外に求めちゃってる。「自分自身に繋がるということを思い出して」ということを言うために、倒れたんですよって。
――なるほど、病気もその気づきのためにあった?
そうしないと私は、超特急の電車を、鈍行に乗り換えられなかった。
乗り換えてみたら、その辺に咲いてる花がちっちゃいけど、美しいっていうのが分かるわけ。今までは上を飛んでたから、「花!?」とか(え?そんなのあるの?)みたいだったかもしれない。
でもね、それはそれでよかったから今があるって思うと、なんと楽しい!「一粒で二度美味しい」っていう人生。
――「人生二毛作」ですね
人生二毛作?まさに!
それで「人生には坂が三つあるって知ってる?」って誰かに言われて。上りの坂と、下りの坂で、もう一つがね・・・「まさか(坂)」。もう私、結構あちこち「まさか」を超えちゃいました!(笑)
でもね、そうなったら、できないことに目を向けるんじゃなくて、できることを味わうっていうふうにする。
ほーりーさんと倒れてから最初に会った時は、歩くのも家の中でも杖ついてなきゃいけないし、立ち上がるのも時間かかったけど、今でも外では電動車椅子のお世話になりますが、できることが増えてきてる時に、「あ、赤ちゃんが立てた」とか、「寝返りがうてた!」って、本人は気づかなくても親は嬉しいですよね。あの感覚でした。
――倒れる前よりも今の方が幸せの種が増えてる?
そうですよね、幸せという価値観の捉え方も広がったと思います。
――そんなロミさんが、これからやってみたことがあれば、ぜひ教えてください。
私はね、昔、心の中の声っていうのを梅干しの種みたいだから「うめちゃん」って呼んでて。今はもう「うめちゃん」って名前ではないんだけど。
宇宙と繋がるっていうのは私たち全員の本来の姿。だからそれを取り戻すっていうことの活動をいよいよ始めようと思っています。
いろんなものを学んだりっていうのも体験なんだけども、本当の自分に出会うっていうことの活動を少しずつ広げていこうっていうのが一つと、そういう人たちが作るコミュニティを作ってみたい。
私ね、心の中の「うめちゃん」がアメリカにいた昔から「2030年」「2030年」っていうのが聞こえたんですよ。
で、その当時まだ2000年にもなってない頃で。「遠いな~」と思ったらもうすぐそこでしょう。
私は2030年は、「もっとみんなで平和を楽しもう」っていう意識の人が増えて、みんなで世界を変えていくきっかけになる年じゃないかと思ってるんですよ。
「根拠は?」って言ったら「ありません!!」(きっぱり)でも根拠がないけど迷いなく思ってます。
そしたら「その時に何しますか?」って言われたら私はね、コミュニティを作ってます。場所は沖縄。そしてなぜか昔から南城市って、南の城って書くんですが本島のね、そこに何の当てもなく、そこに皆が集まって家族のようになってお互いをリスペクトし合いながら、最後まで楽しく生きるっていう土地を作りたいと思ってるんです。
それを話すと、「中野さん、どれぐらいお金貯めたんですか?」「貯めてません」「じゃクラウドですか?」「うんクラウドでもいいしお金はね、きっと用意されると思ってるの」って。
そうするとリアリスティックな人は皆「しょうがないな。この人」って顔するんだけど。(笑)
でもね、「思えば叶う」っていうのが次の世界だから、きっとそうなる。
お金も、今みんな老後に2000万なんて言われてドキッとするけれども。お金というものが必要なくなる世界っていうのを多分私たちは目指していて。
お金があっても、なくてもいい。物々交換すればいいんですよ。
「私とりあえず(出す物が)ないからお金出しときます」って人もいるし、いや「美味しいケーキ焼けたからどう?」ていう人も。
そういう物々交換でとてもクオリティのいい毎日が作れると思うので、そういう人達が集った、小さなコミュニティーを作ったら、あっちこっちから皆見学に来てくれて。
「これ同じやり方で、大丈夫!長野県でもできるわ」って。「九州でも北海道でもどこでもできるよ」っていう。
で、気づいてみたら、そういうコミュニティがもう既にあるんですよ。今この時点で。あっちこっちで農業を中心に集まったり、若い人がシェアハウスで集まったりしてる。
そのネットワークがある時、臨界点を超えた時にぼんと夢のような、子供が安心して大人になれる世界が、そしてお年寄にりは「あぁ、生まれてきて楽しい人生だった」って言われる世界が来ます。
私はね、最後にね。「メメント・モリ」っていうのがこのコロナの間、ずっと私の耳で響いてた。それは「死を意識して毎日を生きてください」っていうラテン語。
考えたら生まれた以上全員死ぬんですよね。それも限られた時間しかかもらってないんだけど、何歳まで契約したか誰も分からない。途中「まさか(坂)」から戻ってくる人もいるしね。
だからそういう意味ではいつその時が来てもいいけど。
例えば今日お目にかかりました。もしかしたらこれが二度とない時間かもしれない。日本語では「一期一会」って言いますよね。そういう思いで毎日を生きてたら、その人のその一日の質って全然違うと思うの。
いつまでも生きてると思うから欲が止まらない。
だけどいつか限りがあるからそこまで何が大切かっていうと、たくさん物を所有することでも、お金持ちになることでも、名声を手に入れることでもなく、何かって言うと、「あぁ、楽しい」っていう時間を増やすこと。
私はあのアメリカにいた時、世界銀行時代に、トレーニングを受けて、ボランティアでホスピスで亡くなる方のカウンセリングをしてたんですね。そういう所に行きますとね。皆さんが旅の最後に関係のない第三者に何を言っていくかっていうのでいっぱい教えてもらった。
全員同じだった。人間関係についてのこと。感情。
多くの場合は「あの人にもう1回会ってお礼が言いたい」「あの人と仲良しだけどあったら謝りたい」「この人と昔のキャンプの思い出話したい」。いろいろ違うんですけど、みんな人間が絡んでるんです。まあペットもね、家族だっていう人もいるけど。
そうなると人間って旅の最後はきっと人間関係の繋がりについて言うわけで。「別荘をもう二つ欲しかった」とか(笑) なんかね、そういうんじゃない。
ところがそれを週末にボランティアやって、普通の日は当然仕事の場にいますよね。そうするとみんな「出世したい」、「もっといいプロジェクトをやりたい」っていうすごい欲があるわけだけど、どんな欲があっても最後はここだっていうのがね、分かったのは私にとって大きな体験でした。
そしてもう一つね、コロナの時に同じようにメメント・モリっていうこと言ってる人の何かを読んでたら「カルペディエム」というもう一つのラテン語があって、それは「その日の花を摘め」っていう。
つまり花っていうのは毎日変わるからその日は咲いてる花をその時楽しみましょう。つまり毎日を毎日がこれが最後の日のように楽しく生きましょうって。
いいですよね。
だから「メメント・モリ」と「カルペディエム」があったら、結構今の生活悪くないでしょう?って思うんですよ。
そうするとね、今日もこうやってほーりーさんとぶっつけ本番でいろんな話を聞いてくださるから、出ますよね。これって二度とできないと思う。
けれどもね。そういうことを重ねながら、その質っていうのが高まっていって、私も最後に「あぁ、よかった。人生面白かった」って言って、「みんなありがとう」って。
そういえば、亡くなっていく方達のカウンセリングして、最後の話してて。向こうに行ってしまった方に心を寄せると、なんか聞こえてくるのがね、命を終えて卒業された方がおっしゃるのは二つ。この話も言っちゃっていいのかしらね?
――聞きたいです!
「全て予定通りでした」っていうのと「全てに感謝です」って、この二つをおっしゃる。
場合によっては、予定外の亡くなり方してる方もいらっしゃるでしょう。こんなはずじゃなかったって。「お父さん、いってらっしゃい」って言って朝送ったのに帰ってきた時は冷たかった人っているわけですよ。事故に遭って。
「そういう人たちも?」って聞いたら、そういう人たちもそうなんです。
ということは、その方は最後に周りの人が心痛めるような卒業の仕方をしたことによって、周りの人は何年かは苦しむけど、その後に自分が生きる生き方のスイッチが入るために私はこういうのをちゃんと計画してますよっていう、壮大な契約が見えるんですよ。
確かにそうおっしゃる方があります。
将来を嘱望されていた双子のお兄さんが若い時に迷って自分で命を取ってしまった。弟さんが今結婚するにあたって、「あんなに優秀なお兄さんが人生を生きられなかったのに、僕が幸せになってはいけないんだ」ってずっと暗かった。お見合いがあってどうにかっ悩んだ時にそういうお話をしたんですね。
「お兄さんのことを一生重荷にすることないよ、お兄さんが先だったことによってあなたに何かのメッセージが来て、それによってあなたがもっと羽ばたけるとしたら?」って言ったら、何かストンと落ちたんでしょうね。「兄の分もこの地球で幸せになります」って。
人間ってね、素晴らしいなって思うんです。限りがあるから素晴らしい。
――もうこのまま、ずっとロミさんのお話を聞いていたいのですが・・・。もっと聞きたい方はロミさんのサイトへ行っていただいたり、講演会やDJロミを聞いていただくとして・・・。今日の私からの最後の質問をさせてください。ロミさんがずっと大切にしてきたことが自分の中にあるとしたら、私はそれを「みずのたま」って呼んでいるのですが、ロミさんにとって、それを言葉にしたらなにでしょう?
そしたら、今日は何にしましょうかね。
私がとっても大切にしている言葉があります。それは「愛のコーヒーカップ」。
「愛のコーヒーカップ」って私ね、よくよく考えたらこのタイトルの本を書いたのもう20年も前ですよね。
人のために生きるのではなく、まずは自分自身に向き合って、自分で溢れんばかりの愛を、自分に注いでください。そうするとカップがいっぱいになって、零れることなく、それが下につたって、目の前の方のカップにも行きますよっていう私の定番ストーリー。
これがコアにあります。自分を一生懸命愛して、自分と繋がることによって、決して自己中になるのではなくて、周りに広がりますよっていうことです。
だから、そう考えると、いつも自分をフィールグッドに、ご機嫌にしておくと全てが繋がっていくと思いますよね。
今こうやってお話しててもほーりーさんとのご縁って長いですもんね。
――長いですね。もう20年以上になりますよね。
そしてさっき、「みずのたま」っておっしゃったけど、水の存在も大きくて。私を「ゆの里」に連れて行ってくださったのもほーりーさんでしょう?
だからそこから私も広がっていって、あそこも全く同じで、湧き出るところから広がるという感覚。湧き出るところが枯渇したら何もできない。
「自分を満たすことによって世の中がよくなる」っていうのが私のコアストーリー、「愛のコーヒーカップ」と言わせていただきました。
今日は来てくださってありがとうございました。ほーりーさん。
――途中登場したのはデイジーちゃん?
うちには二匹の猫がいるの、デイジーとアンカー。でもこれもね。病気になって倒れて療養生活してなかったら会えなかった家族です。
今日は本当にありがとうございました。皆さん、お元気で。
――ロミさん、ありがとうございました!今回のインタビューはぜひ動画で見ていただきたいですね。ロミさんの鈴が転がるような美しいお声を聴いていただきたです。
★中野裕弓さん公式サイト ⇒ https://romi-nakano.jp/index.html
聞き手:株式会社プロ・アクティブ 堀場由美子(ほーりー)